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『俳人漱石』は日本の俳人、国文学者、坪内稔典の著書である。夏目漱石の残した俳句から100句を選び、正岡子規と漱石の間の書簡の記述などをもとに、筆者の想像の中で、各句についてその句の背景や評価を筆者、坪内稔典と子規、漱石が対話するという趣向のエッセーである。2003年に岩波新書で発刊された。 ==紹介される漱石の俳句の例とエピソード== *「帰ろふと泣かずに笑へ時鳥」(明治22年) * 第一高等中学在学中の22歳の漱石が結核の診断をされた子規を見舞った句、現在残っている最も古い漱石の俳句。 *「朝貌や咲た許りの命哉」(明治24年) * 後に江藤淳が漱石の恋人であったと主張する兄嫁、登世(25歳で没)の追悼句で本書では紋きり型の追悼句だと評価されている。 *「烏帽子着て渡る禰宜あり春の川」(明治27年) * 子規が編集責任者の新聞『小日本』に、子規が選んで掲載された漱石の俳句。漱石が俳句に熱心になる契機になったとされる。 *「将軍の古塚あれて草の花」(明治28年) *この年の8月、漱石の松山の下宿に子規が逗留し、俳人が集まってしばしば句会が開かれていた。漱石も熱心に参加した。 *「凩に裸で御はす仁王哉」(明治28年) * 松山から東京へ帰った子規にしきりに句稿を送り批評を求めるようになった時期の句。「凩に仁王」というだけでよく作者が自分の思いをのべるはさかしげだと批評されている。 *「衣替へて京より嫁を貰いけり」(明治29年) * この年熊本に移り、6月に結婚する。子規は漱石に「蓁々たる桃の若葉や君娶る」の句で祝った。 *「風呂に入れば裏の山より初嵐」(明治31年) *五高生の寺田寅彦が漱石に見せた句稿「湯上りの渋茶すヽれば初嵐」に対して、漱石が示した自作の句。寅彦は漱石の最初の俳句の弟子となる。 *「道端や氷りつきたる高箒」(明治32年) *明治32年、正岡子規は新聞『日本』に俳人の錚々たる者として碧梧桐、虚子、紅緑らとともに漱石を紹介した。漱石は20代の後半から30代の前半に多くの句を創作した。全集に収録された句数は明治28年460句、29年522句、30年288句、31年103句、32年350句、33年(留学まで)10句であったことが紹介される。 *「草山に馬放ちけり秋の空」(明治32年) *稔典が最も好きであるという一句、母音にAとIが多く、明るい開放的な響きを評価している。 *「別るヽや夢一筋の天の川」(明治43年) *修善寺で大吐血した後、快方に向かう時期の句。小品「思い出す事など」で句の意味が作者にも判然とせぬまま恍惚としてできたのではないかと振り返った句。 *「秋立つや一巻の書の読み残し」(大正5年) *芥川龍之介への手紙に添えられた句。若者へ後事を託す句とも読めるとする。この年の末、漱石は没する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「俳人漱石」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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