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藤原 秀郷(ふじわら の ひでさと)は、平安時代中期の貴族・武将。下野大掾藤原村雄の子。 室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。死後、贈正二位を追贈された。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出した。 == 生涯 == 出自を藤原北家魚名流とするのが通説だが、「実際には下野国史生郷の土豪・鳥取氏で、秀郷自身が藤原姓を仮冒した」という説もある〔豊田武『苗字の歴史』(中公新書、1971年)、武光誠『名字と日本人』(文春新書、1998年)など。〕(あるいは古代から在庁官人を務めた秀郷の母方の姓とする)。 俵藤太(田原藤太、読みは「たわらのとうだ」、「たわらのとうた」、藤太は藤原氏の長、太郎」の意味)という名乗りの初出は『今昔物語集』巻25「平維茂 藤原諸任を罰つ語 第五」であり、秀郷の同時代史料に田原藤太の名乗りは見つかっていない。由来には、相模国淘綾郡田原荘(秦野市)を名字の地としていたことによるとする説、幼時に山城国近郊の田原に住んでいた伝説に求める説、近江国栗太郡田原郷に出自した伝説に求める説など複数ある。 秀郷は下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(もしくは18)名とともに流罪とされた。しかし王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない〔延長5年(927年)に下野国押領使に任じられたとする意見もあるが2年後に追討官符を出されていることから疑問視する意見もある。〕。さらにその2年後の延長7年(929年)には、乱行のかどで下野国衙より追討官符を出されている。唐沢山(現在の佐野市)に城を築いた。 天慶2年(939年)平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、甥(姉妹の子)〔である平貞盛・藤原為憲と連合し、翌天慶3年(940年)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。平将門の乱にあっては、藤原秀郷が宇都宮大明神(現・宇都宮二荒山神社)で授かった霊剣をもって将門を討ったと言われている。平将門の乱において藤原秀郷が着用したとの伝承がある兜「三十八間星兜」(国の重要美術品に認定)が現在宇都宮二荒山神社に伝わっている〔「宇都宮二荒山神社公式サイト」 〕〔この兜の実際の制作年代は南北朝時代とみられる(栃木県教育委員会サイトの解説 参照)。多数の鉄板を矧ぎ合わせて兜鉢を構成している点、星(兜に打たれた鋲の頭を指す)が小型化している点、頂辺の孔(てっぺんのあな)が小さい点などはこの兜が平安時代の作ではなく時代が下降することを示す。〕 複数の歴史学者は、平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察している〔青木和夫 『古代豪族』 講談社(初版小学館)、2007年、初版1974年、ISBN 4061598112 では、天慶3年正月14日(ユリウス暦940年2月24日)に朝廷が将門対策として平公雅ら8人を東国の掾に任命した際に、その一人として叙任されたとする。下向井龍彦 『武士の成長と院政』 講談社、2001年、ISBN 4062689073 では天慶3年(940年)、将門が「新皇」を名乗ったことが京都に伝わったときとの説であり、青木説とほぼ同時期となっている。〕。この功により同年3月従四位下に叙され、11月に下野守に任じられた。さらに武蔵守、鎮守府将軍も兼任するようになった。 将門を討つという大功を挙げながらも、それ以降は資料にほとんど名前が見られなくなり、没年さえも不詳である。 生没年は不詳だが、将門討伐のときにはかなりの高齢だったといわれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原秀郷」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fujiwara no Hidesato 」があります。 スポンサード リンク
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