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倉橋 良介(くらはし りょうすけ、1919年 - )は、日本の映画監督である〔年鑑, p.419-420.〕〔年鑑, p.251.〕〔''倉橋良介''・''風魔三郎''、日本映画データベース、2012年6月18日閲覧。〕〔''倉橋良介''・''風魔三郎''、日本映画情報システム、文化庁、2012年6月18日閲覧。〕〔''倉橋良介''・''風魔三郎''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年11月10日閲覧。〕〔''倉橋良介''、テレビドラマデータベース、2012年6月18日閲覧。〕。日東テレビ映画常務取締役、プロダクション鷹取締役を歴任〔。別名に風魔 三郎(ふうま さぶろう)〔〔〔。 == 人物・来歴 == 1919年(大正8年)に生まれる。 松竹京都撮影所に入社、『破れ太鼓』(1949年)の木下恵介、『薔薇合戦』(1950年)成瀬巳喜男の助監督を務めた記録がある〔。1954年(昭和29年)1月27日に公開された、岩井半四郎主演の『とのさま街道』で監督に昇進している〔〔。以降、1960年(昭和35年)までの6年間に16作を監督している〔〔。 1961年(昭和36年)7月2日に放映を開始した連続テレビ映画『神州天馬侠』(同年12月24日放映終了)の監督をして、テレビ映画に進出した〔。1962年(昭和37年)11月4日に放映を開始した連続テレビ映画『織田信長』(東伸テレビ映画、1963年10月27日放映終了)では、「脚本」のみにクレジットされた〔。1963年(昭和38年)12月11日に放映を開始した連続テレビ映画『海の野郎ども』(日本電波映画、1964年7月29日放映終了)では、監督を務めている〔。このころ松竹を退社している。 1965年(昭和40年)8月に公開された成人映画『赤いしごき 日本毒婦伝』を風魔 三郎の名で監督し、同年10月に公開された成人映画『野武士』を「倉橋良介」名義で監督して劇場用映画に復帰、同2作を製作した木俣堯喬が主宰するプロダクション鷹で、いわゆる「ピンク映画」を撮り始める〔〔。同年11月に国映が配給して公開された成人映画『ギラついた裸獣の群れ』も含め、これらは「成人映画」に指定された時代劇映画であった〔ギラついた裸獣の群れ 、日本映画情報システム、文化庁、2012年6月18日閲覧。〕〔ギラついた裸獣の群れ 、日本映画データベース、2012年6月18日閲覧。〕。同作の撮影技師広田彰三は、かつて倉橋がチーフ助監督を務めた『薔薇合戦』のときの撮影助手であり、美粧の林政信、桜井文子は東映京都撮影所のヴェテランスタッフであった〔。木俣堯喬が代表を務める日東テレビ映画株式会社(1965年4月17日設立)、ならびにプロダクション鷹(1965年6月1日設立)は設立当時、京都市右京区嵯峨甲塚町1番地に所在し、それぞれの会社で常務取締役、取締役を務めた〔。 1972年(昭和47年)1月1日に放映を開始した『木枯し紋次郎』第1部では、市川崑ら大御所が監督することもあって、助監督を務めている〔。以降の作品歴についての資料は見当たらない〔〔〔。同年秋以降の情報が掲載されている『映画年鑑 1973』によれば、プロダクション鷹(日東テレビ映画株式会社)はすでに東京都渋谷区千駄ヶ谷5丁目に移転しており、同社の役員のリストに倉橋の名はない〔。日本映画監督協会に加入していないため、現在の消息は不明である〔会員名鑑 、日本映画監督協会、2012年6月18日閲覧。〕。存命であれば2014年(平成26年)には満95歳である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「倉橋良介」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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