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倉田 文人(くらた ふみんど、1905年1月25日 - 1988年1月28日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである〔''倉田文人''、映像作品データベース、武蔵野美術大学、2012年4月24日閲覧。〕〔''倉田文人''、日本映画データベース、2012年4月24日閲覧。〕。 == 人物・来歴 == === 日活現代劇からインドネシアへ === 1905年(明治38年)1月25日、大分県速見郡山香町(現在の同県杵築市山香町)に生まれる〔。 1929年(昭和4年)、日活太秦撮影所現代劇監督部に入社、木村次郎に師事、同年、木村の監督した『名なし鳥』に助監督としてクレジットされる〔〔〔名なし鳥 、日本映画データベース、2012年4月24日閲覧。〕。同撮影所の同部で、溝口健二や田坂具隆に師事する助監督の熊谷久虎と知り合う〔〔熊谷久虎 、日本映画データベース、2012年4月24日閲覧。〕。1932年(昭和7年)、谷幹一主演の『とかく女と言ふものは』で監督に昇進した〔〔。 1934年(昭和9年)、新たに開所した日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に異動する〔〔。1938年(昭和13年)に手がけた『北へ帰る』で監督としての評価を得る〔。1940年(昭和15年)に手がけた『沃土万里』が、同撮影所での最後の作品となる〔。 1942年(昭和17年)、太平洋戦争に従軍する〔。インドネシアのジャカルタで、「インドネシア映画芸術家連盟」を組織する〔。1943年(昭和18年)に『セレベス新聞』が行った座談会に、当時、ジャワ映画会社理事長の大宅壮一、映画監督の石本統吉、東宝営業部長の三橋哲夫、美術家の河野鷹思、作曲家の飯田信夫、活動弁士の松井翠声、大阪商科大学教授の別枝篤彦、小説家の武田麟太郎とともに参加している〔『南方徴用作家叢書 11』、p.45-53.〕。倉田はそこで、インドネシアの映画製作の状況として、ジャカルタに6か所、スラバヤ、マランにそれぞれ1か所の撮影所があり、技術者はほとんどが華僑であって、インドネシア人がいないことを述べ、その状況に対して、倉田は、映画製作等の文化指導を行っていたようである〔。倉田は、日本映画社ジャカルタ撮影所インドネシア映画部長として、『南の願望』(監督Rd・アリフィエン、1944年)を製作している。当時のジャワの宣伝班には、ほかにも、小説家の阿部知二、漫画家の横山隆一、画家の小野佐世男らがいた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「倉田文人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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