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倉重 アサコ〔朝日新聞 1985年2月23日付、23面〕(くらしげ あさこ、1906年(明治39年)5月19日〔追悼「回天」と「おしげさん」 - 会報 特攻 第83号 35頁 〕〔週刊新潮『昭和の墓碑銘』新潮社(2006年)189-192頁では、1907年(明治40年)生まれと書かれている。〕 - 1985年(昭和60年)2月22日〔)は、山口県徳山市にあった料亭「松政」の元・仲居。 「回天の母」とも呼ばれる〔サクラを植え回天の母を語り継ぐ NNNニュース(山口放送)2012年12月19日 〕。なお、倉重アサ子、倉重朝子という表記になっている出典もある。 == 来歴 == 山口県美祢郡美東町で、農家の長女として生まれる。尋常小学校を出て「松政」に奉公〔「松政」で働いたのは、1926年(大正15年)からという説もある。 (山口新聞 2012年12月20日 ">回天の母の思い引き継ぐ 記念館前に「お重桜」 山口新聞 2012年12月20日 )〕した後、一旦、結婚退職する〔週刊新潮『昭和の墓碑銘』新潮社(2006年)189-192頁〕。 1940年(昭和15年)、夫の病死にともない、31歳の時から「松政」で再び働き始める。徳山港が海軍の軍港だったこともあり、「松政」には海軍士官が度々訪れていた〔。 1944年(昭和19年)11月7日〔日刊新周11月26日のニュース 新周南新聞社 〕、板倉光馬少佐(大津島の回天隊水雷参謀兼指揮官)の依頼による「松政」での60人のすき焼き会の世話をしたのが、人間魚雷回天搭乗員たちとの親交の始まりだったという。以後、若い予科練生徒たちから、お重さん、お母さんと慕われた。「松政」では、第一回出撃(同年11月18日)前夜の壮行会も行われ、倉重は回天特攻隊員たちに白い絹のマフラーを贈ったという〔。 終戦後の大津島・回天基地の部隊解散の日、生き残った搭乗員と初めて島に渡り、10年後の11月8日(最初の出撃記念日)に「松政」で再会することを誓い合った。その1955年(昭和30年)11月8日から毎年、大津島で慰霊祭を行うようになった。倉重は、住み込みだった「松政」の2階の自室に、夫の位牌と『人間魚雷回天将兵の諸英霊』と戒名を施した戦没隊員の位牌を置き、朝夕手を合わせ供養を続けたという〔産経新聞 2007年6月5日付〕。 1971年(昭和46年)7月、「松政」閉店にともない、倉重は里に帰った。毎年11月の大津島の慰霊祭には欠かさず出席した〔。 2012年(平成24年)12月19日、「回天の母 お重さんに感謝する会」によって、回天記念館の前庭にお重桜(しだれ桜のエドヒガン)が植樹された〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「倉重アサコ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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