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倪 嗣沖(げい しちゅう)は清末民初の軍人。北京政府、安徽派に属した。字は丹忱。なお、倪嗣衝(げい ししょう)と書かれる場合もある。甥は倪道烺。 == 事跡 == 清で秀才となったが、まもなく李鴻章の淮軍に参加した。1895年(光緒21年)、袁世凱配下となって新建陸軍に加わる。1907年(光緒33年)、政府に金銭を献納して知府候補となる。東三省総督徐世昌により、奉天提法使、黒竜江民政使兼巡防軍翼長に任命された。しかし、1909年(宣統元年)に徐の後任として錫良が就任すると、倪は汚職を理由に罷免されてしまった。1911年(宣統3年)10月、河南布政使・幇弁河南軍務となり、まもなく安徽布政使に異動した。 1912年(民国元年)、武衛右軍翼長・督弁皖魯豫蘇四省交界事宜に任命された。翌年、安徽清郷督弁、皖北鎮守使、安徽護軍使、安徽都督兼民政長と歴任した。1914年(民国3年)、安武上将軍の位を授与され、督理安徽軍務となった。 1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝即位の準備を開始すると、倪嗣沖は他の14人の北洋系軍人とともに袁を推戴する。同年12月、袁の皇帝即位に伴い、一等公に封じられた。1916年(民国5年)4月、長江巡閲副使兼署安徽省長に異動した。また、この間、護国戦争(第三革命)に際しては、袁を最後まで支持し、袁が皇帝即位を取り消そうとしたときも、これに反対したほどであった。 同年6月6日に袁世凱が死去すると、倪嗣沖は、段祺瑞が指導する安徽派の中心的人物となり、7月に安徽省長に就任した。府院の争いでは、段を支持して黎元洪の追い落としを図り、9月には倪が指導的立場となって安徽派督軍による「十三省連合会」(いわゆる「督軍団」)を組織した。1917年(民国6年)の張勲による復辟では、これを密かに支援する。しかし段が張勲の討伐を開始すると、倪は態度を豹変させ、南路討逆軍総司令として張勲討伐に参加した。復辟失敗後、倪は長江巡閲使兼安徽督軍として、依然として安徽派の中心にあった。しかし、1920年(民国9年)7月の安直戦争で段が敗北すると、倪も9月に罷免され失脚した。 1924年(民国13年)7月12日、天津で病死。享年57。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「倪嗣沖」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ni Sichong 」があります。 スポンサード リンク
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