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偽ドミトリー1世(にせドミトリーいっせい、, , 1581年 - 1606年5月17日)はモスクワ国家のツァーリ(在位1605年7月21日 - 1606年5月17日)。動乱時代にイヴァン4世の末子ドミトリー皇子を僭称した最初の人物で、その権利によって即位し、「ドミトリー2世」と数えられた。 == 生涯 == === 出現 === ドミトリーは1600年頃にその存在が知られ始めたらしく、モスクワ総主教は彼の存在を伝え聞き、その実在を把握している。しかしボリス・ゴドゥノフが追手を差し向けると、ドミトリーはウクライナ地方のオストロフに逃れてコンスタンチン・オストロジスキー公の保護を受け、その後リトアニアの大貴族の庇護下に入った。とはロシア情勢に介入する口実とみて、ドミトリーの主張を支持した。 ドミトリーにはポーランドの先王ステファン・バートリの私生児だという噂があり、後世の逸話ではそのことを明かしたドミトリーが怒った主人に殴られたとされる。ドミトリーは「母親」であるイヴァン4世の未亡人マリヤ・ナガヤに向けて、自分はウグリチで1591年に殺されたと思われた時、実はボリス・ゴドゥノフの刺客から逃げて、ある医師の手助けで修道院に匿われて成長したと主張した。そしてその医師の死後、ドミトリーはポーランドに逃れ、ヴィシニョヴィエツキ家の庇護を受けるまでの短期間は教師をしながら暮らしたとも証言した。ドミトリーが皇子に容姿が似ているとイヴァン4世も述べた、という荒唐無稽な話まで多くの人々が信じたようである。またドミトリーは乗馬や読み書き、ポーランド語とロシア語両方を使いこなすといった貴族的素養を示した。 ドミトリーの主張を信じたかどうかはともかく、アダム・ヴィシニョヴィエツキ、、その他何人かの貴族たちは、ボリス・ゴドゥノフの対抗馬に彼を担ごうと画策した。1604年3月、ドミトリーはクラクフの王宮でポーランド王ジグムント3世に引き合わされた。国王は彼を一時的に支援したが、モスクワ大公位奪取のための直接的な援助は約束しなかった。イエズス会からの支援を仰ごうとしたドミトリーは、1604年4月17日密かにカトリックに改宗し、教皇特使ランゴーニから支持の確約を取り付けることに成功した。またにも助力を頼み、その代償として即位した暁にはプスコフ、ノヴゴロド、スモレンスク、ノヴゴロド・セーヴェルスキーをムニーシェフ家に渡し、彼の娘マリナ・ムニーシェフを皇妃に迎えると約束した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「偽ドミトリー1世」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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