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傅懿妃(ふいき、1588年 - 1644年6月30日)は、明の泰昌帝の側室。 == 生涯 == 万暦年間、太子朱常洛(のちの泰昌帝)の邸に入り、選侍(皇子の側室)となった。太子から寵愛を受けた。 泰昌帝が即位すると、詔書により妃に封じられたが、妃に冊封する儀式の際に泰昌帝が崩じた。天啓帝の即位後、傅氏たちは別宮へ追放されたが、後に呼び戻された。天啓4年(1624年)、光廟懿妃(泰昌帝の廟号の光宗による)に封じられた。崇禎13年(1640年)、孝純太后(元は傅懿妃と同じく泰昌帝の側室だった)の肖像を描かせるため、崇禎帝(孝純太后の実子)により温定の徽号が贈られた。 崇禎17年(1644年)3月19日、李自成軍が皇宮に進入すると、宦官と共に白洋澱(河北省の保定市から任丘市にかけての湖)へ逃れて避難した。同年5月26日(1644年6月30日)、農村で病没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「傅懿妃」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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