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傅 筱庵 (ふ しょうあん)は、中華民国の政治家・実業家・銀行家。中華民国維新政府、汪兆銘政権で上海市長をつとめた。日本では一般に名の宗耀で知られるが、中国では一般に字の筱庵で知られる。 == 事跡 == 1892年(光緒18年)、上海浦東の船工場で働きながら、夜間学校で英語を学んだ。1909年(宣統元年)、招商局所属華興保険公司に勤め、副経理・総経理を歴任している。1911年(宣統3年)10月、辛亥革命が勃発すると、滬軍都督府財政部総参議・滬関清理処処長となる。あわせて、招商局、漢冶萍公司、中国通商銀行の股権代表(株主代表)となった。 1914年(民国3年)、傅筱庵は盛宣懐により招商局経理各地桟租に任命された。さらに中国通商銀行董事(理事)と上海総商会第1期議董もつとめている。1916年(民国5年)4月、盛が病没すると、傅は招商局董事・同局積余産業経理・内河輪船公司経理兼主船課長となった。以後、上海総商会、中国銀行、漢冶萍公司など様々な業種の国内有力企業で要職を歴任する。1926年(民国15年)、上海総商会会長となった。しかし、中国国民党の北伐軍が上海に入城すると、傅は北京政府の孫伝芳を支援した罪により指名手配されてしまい、大連へ逃亡した。 1931年(民国20年)に傅筱庵はようやく指名手配を解除され、上海へ戻って中国通商銀行総経理・董事長などをつとめた。1938年(民国27年)10月、中華民国維新政府の下で上海特別市市長に任命されている(南京国民政府成立後も留任)。同年、蒋介石の重慶国民政府が軍統の特務を派遣し、上海逗留中の汪兆銘(汪精衛)暗殺を図った。傅は、当初は軍統に協力していたが、実行直前にこれを汪に告げ、特務の暗殺部隊を取り押さえている。これに怒った蒋は、軍統の指導者である戴笠に傅暗殺を厳命した。 1940年(民国29年)10月10日、傅筱庵は就寝中のところを、軍統に買収された使用人に殺害された。享年69(満67歳)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「傅筱庵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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