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備前喜夫[びぜん よしお]
備前 喜夫(びぜん よしお、1933年10月9日 - 2015年9月7日)は、広島県尾道市出身のプロ野球選手(投手)。引退後は広島東洋カープコーチ、二軍監督、スカウトを務めた。旧名は「大田垣 喜夫」(おおたがき よしお)。 == 来歴・人物 == 尾道西高校(現・尾道商業高校)から、に創設2年目の広島カープに入団。当時の広島県内の有力選手は、影響力が強かった広島球団後援会の援助をプロ入り前から受けており、大田垣も「他のチームに行ったら承知しない」と脅されていたという〔白石勝巳著書 『背番号8は逆シングル』 207頁〕。 1952年3月21日に新人ながら開幕投手となり松竹ロビンス相手に初登板で完投し、初勝利を飾る。当時のエース・長谷川良平は中日移籍の話があって交渉がもつれ、結局は広島に残留したものの開幕に調整が間に合わなかったことから、大田垣に白羽の矢が立ったものであった。18歳5ヶ月での開幕戦勝利は、現在もプロ野球史上最年少記録である。2リーグ制以降、開幕投手を務めた高卒新人は大田垣、梶本隆夫、牧野伸と3人いるが、9回完投したのも大田垣一人である(2013年まで)〔スポーツニッポン、2013年3月29日〕〔大谷まず一刀で開幕8番右翼スタメン濃厚 〕。また、広島は広島は前年も新人の杉浦竜太郎が開幕投手を務めて完投勝利を挙げており、2年連続で新人が開幕完投勝利を収めるという珍しい記録を作った。また、に佐々岡真司が38年ぶりに新人の初登板初勝利を記録するまで、広島の新人で初登板初勝利を挙げたのも長らくこの2人のみであった〔杉浦、大田垣、佐々岡の他の顔ぶれは山内泰幸、黒田博樹、小林幹英(唯一の救援勝利)、齊藤悠葵、福井優也、九里亜蓮である。このうち、高卒新人は大田垣と齊藤の2人((2011年5月現在))。〕。同年大田垣は新人ながら主戦投手として23試合に先発して、規定投球回(180回)を達成。防御率4.30は投手成績最下位(19位)であったが、チーム3位となる7勝を重ねて球団初の最下位脱出に貢献した。 翌には長谷川に次ぐ13勝を挙げるが敗戦も20を数え、この年から5年連続で2桁勝利を挙げるものの、も22敗と2度の年間20敗を記録している。しかし、備前家の婿養子となって姓が変わり、背番号も16番に変更したには20勝(13敗)を記録した。は17勝を挙げリーグ5位の防御率2.19を記録するが、自身3度目の年間20敗となった。またこの年には、ルーキーだった王貞治にシーズン本塁打7本のうち2本を献上している。この間、オールスター戦に2回出場(1956年、1959年)しているが、いずれも年間20敗を記録したシーズンであった。 小柄な体格からか、やや体力に乏しかったともいわれ怪我が多く、1勝に終わった限りで現役を引退した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「備前喜夫」の詳細全文を読む
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