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備宿[そなえのしゅく]
備宿(そなえのしゅく、または備崎宿〈そなえざきのしゅく〉、本宮備崎〈ほんぐうそなえざき〉とも)は、大斎原(おおゆのはら、熊野本宮大社旧社地)から熊野川を挟んで対岸の備崎にある修験道の宿遺跡。同所にある備崎経塚(そなえざききょうづか)についても併せて解説する。 == 宿と靡 == 修験道においては、抖擻(とそう、山林中を自らの足で歩いて修行する)による廻峯行(かいほうぎょう)が行われた。中世英彦山の教義書『彦山修験秘訣印信口決集』には廻峯行のための峯中路を「修行(シコノヲ)」「路(ナビキ)」と呼び、『修験頓覚速証集』では「修行(シコノヲ)」「踞(ナボキ)」と呼ぶなど、峯中路そのものを「修行」と呼ぶほどに山岳修行が重視されていた〔山本9-10 〕。 峯中路には宿(しゅく)と呼ばれる霊地ないし行所が設けられた。宿という用語の初見は長承2年(1133年)付の『金峯山本縁起』であり、今日に言う大峯奥駈道上に120箇所あるとし、そのうち81箇所を明記している〔〔森沢6-7 〕。宿は、峯中路に沿って設けられ、その数は信仰上の意味や山林中での行動の都合を勘案して設定された〔長野〕。本来、宿には神霊や祖霊を迎える場所としての意味があるが、実際にはやや異なる機能を持った2種に分化している。ひとつは、修法・勤行の場としての宿であり、もうひとつは宿泊(参籠)の施設となる宿であって、前者には小祠堂や自然崇拝物(大樹・巨岩など)が、後者には神社・寺院が多用される〔山本10 〕。 しかしながら、後に中世末から近世初頭にかけて距離単位としての「里」をもナビキと呼ぶようになり、さらに山岳修行自体が低調となってゆくにつれ、ナビキの語の峯中路としての意味が薄れた。ナビキの語は、吉野から熊野まで七十五里あることを表す「大峯七十五里」といった言葉の中にのみ残るようになり、かつてとは意味が反転して、七十五里の距離に対して霊場を充てるようになった。今日、大峯奥駈道の行場をさして宿ではなく靡(大峯七十五靡)とよぶのはこうした消息によるものである〔森沢7-8 〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「備宿」の詳細全文を読む
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