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備崎 ( リダイレクト:備崎経塚 ) : ウィキペディア日本語版
備崎経塚[そなえざききょうづか]

備崎経塚(そなえざききょうづか)は、和歌山県田辺市本宮町内にある経塚遺跡。遺跡のある備崎は大峯奥駈道上の霊地である七越峰から派生した熊野川左岸の丘陵で、熊野川にUの字状に囲まれるようにして大きく張り出しており、大斎原(おおゆのはら、熊野本宮大社旧社地)と川筋を挟んで向かい合う位置にある〔山本62 〕。
国の史跡大峯奥駈道」(2002年平成14年〉12月19日指定)の一部〔
〕〔
〕である。また、大峯奥駈道は世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」(2004年登録)の一部である〔、pp.39,75〕。
== 発掘の経緯 ==
熊野詣が盛んになり始めた時期と経塚造営の流行期が重なることから、熊野三山を中心とする熊野には多くの経塚が営まれ〔時枝207 〕、新宮那智山においては大規模な経塚の存在が知られていた〔那智山については以下の文献を参照。
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新宮については以下の文献を参照。
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〕。三山の緊密な関係や新宮・那智山における経塚遺跡の規模からすると、本宮にも同様の経塚造営が推定される〔関269 〕ものの、本宮ではその旧社地が熊野川・音無川・岩田川の3つの川の合流する中洲という水害にさらされやすい不安定な場所にあって、旧社地周辺での埋蔵物の出土は全くなかった〔関269、271 〕。明治時代に大水害に被災して関連史料が利用できなくなったため、本宮の経塚についてはほとんど明らかになっていなかった〔杉山849 、関269 、大谷女子大学博物館1 など〕。わずかに、本宮における堤防工事の折に「土中出現黄金仏」と伝える曲亭馬琴の随筆『兎園小説』の記事、およびそれに関連すると見られる銅製経筒および陶製外容器が伝わって〔杉山849 、関271-272 〕いたものの、馬琴の記事では出土の状況は明確ではない〔関271 〕。
備崎経塚が初めて報告されたのは、1990年(平成2年)、和歌山県教育委員会の調査〔和歌山県による調査の成果は、1990年(平成2年)に公刊された。〕によってであった。和歌山県教育委員会は、東牟婁郡地域を対象として実施した「東牟婁地方広域遺跡群詳細分布調査」の一環として備崎の調査を実施した。この調査では、丘陵頂部にあたるA地点、丘陵西端のB地点、Bに隣接し、本宮旧社地と熊野川を挟んで向かい合う尾根筋北東斜面上のC地点、Aから北東の斜面上のD地点の4つの調査地点が設定され、A地点からは河原石や須恵質の甕片といった経塚の可能性のある遺構が検出され、B地点には河原石集石の遺構が確認されたほか、C地点では、修験道の道場とされてきた巌の側から瓦質の土器底辺が得られ〔和歌山県教育委員会11 〕、さらなる調査の必要性が指摘された〔和歌山県教育委員会12-13 〕。
2001年平成13年)、和歌山県教育委員会の調査結果を踏まえて、和歌山県東牟婁郡本宮町(当時)は、世界遺産登録およびその前提となる史跡指定を目指す登録推進活動の一つとして備崎経塚の調査を企画した〔大谷女子大学博物館1 、本宮町史編さん委員会109 〕。本宮町は備崎経塚群発掘調査委員会を組織し、国庫補助金を得て大谷女子大学文学部文化財学科の中村浩に調査実務を依頼した〔大谷女子大学博物館1 〕。中村は現地視察を経て、2001年(平成13年)12月11日から14日にかけて遺跡の分布・測量・遺構確認を目的とした予備調査を、翌2002年(平成14年)2月5日から15日にかけて本格調査をそれぞれ実施し〔大谷女子大学博物館第1章 〕、成果を報告書として刊行した〔大谷女子大学博物館〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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