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元慶の乱 : ミニ英和和英辞書
元慶の乱[がんぎょうのらん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [げん, もと, がん]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 4. (2) former 

元慶の乱 : ウィキペディア日本語版
元慶の乱[がんぎょうのらん]
元慶の乱(がんぎょうのらん)は平安時代に起きた夷俘蝦夷)の反乱である。朝廷の苛政に対して出羽国の夷俘が蜂起して秋田城を襲った。官軍は苦戦して鎮圧は難航したが、藤原保則が寛政によって鎮撫して終息した。
== 経緯 ==
元慶年間の初頭、干ばつにより全国的に飢饉に襲われ、各地で不動倉が開かれ、賑給が実施された。直接記録に残ってはいないが、東北地方も例外ではなかったと考えられている。それに秋田城司による年来の苛政が重なり、夷俘の不満は頂点に達した。元慶2年(878年)3月、夷俘が蜂起して秋田城を急襲、秋田城司介良岑近は防戦しかねて逃亡した。夷俘は周辺に火を放ち、出羽守藤原興世も逃亡してしまう。
4月、出羽守よりの急使を受けた朝廷は、下野国上野国にそれぞれ1000ずつの徴兵を命じた。19日には最上郡郡司擬大領の伴貞道が戦死する。
5月、朝廷は藤原梶長押領使に任じて陸奥国より騎兵1000、歩兵2000を派遣して鎮圧に向かわせた。出羽掾藤原宗行文室有房小野春泉の出羽兵2000もこれに合流する。6月、夷俘の軍勢が大挙して再度秋田城を襲い、官軍は大敗を喫して、藤原梶長も陸奥国へ逃げ帰ってしまう。城中の甲冑300領、米700石、衾(寝具)100条、馬1500匹が夷俘の有に帰した。反乱は拡大して秋田城下の12村(上津野、火内、榲淵、野代、河北、腋本、方口、大河、堤、姉刀、方上、焼岡)が夷俘の支配に落ち、出羽北部ではわずか3村(添河、覇別、助川)の俘囚だけが出羽国に属していた。さらに津軽・渡嶋の蝦夷も蜂起した蝦夷を支援する。
5月、朝廷は左中弁藤原保則を出羽権守に任じて討伐にあたらせることとした。保則は備中国備前国国司として善政をうたわれた人物であった。保則は小野春風の起用を願い、6月、春風は鎮守府将軍に任命される。陸奥介坂上好蔭坂上田村麻呂の曾孫)とともに出羽国へ向かった。この時点で俘囚3人が陣営に来て、秋田河以北を朝廷の直接支配が及ばない「己地」となすことを要求した。
保則は文室有房、上野国押領使南淵秋郷に命じて上野国兵600人と俘囚300人をもって夷俘に備えさせた。これら軍事的措置をすませたうえで、朝廷の不動穀を賑給して懐柔にあたった。保則の寛大な施策の一環である。また、保則の手持ちの兵力が寡兵であるため常陸国武蔵国の兵2000を動員する許可を朝廷に求めている。
8月、夷俘の集団が次々と秋田城下に来て降伏してきた。寛政の噂が広まり、夷俘の敵意が和らいだためである。保則は来降を許したが、元慶3年(879年)1月、朝廷は討伐の強行を命じてきた。これに対して保則は出羽国の現状を報告して、寛大な政策をおこなって苛政によって逃亡した夷俘の還住を促すことこそ上策であると意見した。朝廷はこの意見を容れて3月、征夷の軍を解いた。
藤原保則は武力によらず寛政によって反乱の鎮撫に成功した。一方でこれは、朝廷の力が低下して坂上田村麻呂の時代のように武力によって夷俘を制圧できなくなっていたことも意味していた。夷俘は降伏したが朝廷による苛政をくつがえし、力を示したことで一定の成功を収めたと考えられる。
乱後、秋田城は保則の手により再建された。出羽国司次官であるが受領官に格上げされると共に、秋田城常駐となり軍事機能も強化された。これは後に秋田城介と呼ばれる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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