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元暉業(げん きぎょう、生年不詳 - 551年)は、東魏の皇族。北魏の景穆帝拓跋晃の玄孫にあたる。字は紹遠。 == 経歴 == 北魏の済陰王元弼の子として生まれた。若い頃は無頼で、こそ泥たちと交友した。成長すると態度を改め、読書に励み、文章をしたため、大志を抱くようになった。528年、上訴して父の済陰王の爵位を継ぎ、散騎常侍となり、行台尚書を兼ねた。529年、梁の陳慶之の侵攻があり、暉業は征東将軍に任じられ、羽林庶子2万人を率いて考城に駐屯したが、城を攻め落とされて捕らえられた。のちに解放された。東魏が建国されると、司空・太尉を歴任し、特進を加えられ、中書監や録尚書事をつとめた。あるとき高澄が「何を読んでいるのか」と暉業に訊ねると、「伊尹・霍光の伝記を読んで、曹氏や司馬氏の書を読んでおりません」と答えた。これは高氏による簒奪の企みを牽制する発言であった。 暉業の時運は衰え、ただ飲み食いをして暮らすようになった。550年、北斉が建国されると、美陽県公に降封され、開府儀同三司・特進となった。暉業は交友もなくなり、暇にあかして魏の藩王の家伝を撰して、『弁宗録』40巻(『弁宗室録』30巻ともいう)を編んだ。 551年、文宣帝の車駕に従って晋陽に到着し、宮門の外で彭城王元韶が北斉に膝を屈したことを罵った。それを文宣帝が聞いて暉業を殺し、また臨淮公元孝友を斬った。孝友は刑に臨んで、恐慌のあまり挙措を失ったが、暉業は泰然自若としていた。氷に穴を掘ってその屍を沈められた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「元暉業」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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