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文治地震(ぶんじじしん)は、元暦2年7月9日午刻(ユリウス暦1185年8月6日12時(正午)頃、グレゴリオ暦1185年8月13日)に日本で発生した大地震である。 地震は元暦年間に発生したが、この天変地異により、翌月の8月14日に文治に改元されたことから、一般には、元暦ではなく文治を冠して呼ばれることが多い。この改元について『百錬抄』では「十四日甲子、有改元、依地震也、(地震による)」と記述しているが、異説もあり、『一代要記』には「八月十四日改元、依兵革也、」とあり兵革によるともされる〔北爪真佐夫「元号と武家」『札幌学院大学人文学会紀要』第68号、2000年〕。しかし中世の日本においては合戦や政変によるものより、地震や疫病流行など自然現象のもたらす災害による改元の方が多かった〔矢田俊文 『中世の巨大地震』 吉川弘文館、2009年〕。 この地震に関する古記録は当時の都や政治の中心地であった京都や鎌倉における文書にほぼ限られており断片的な記録しか有しない歴史地震であるため、その震源域については諸説ある。 == 地震の記録 == 文治地震は壇ノ浦の戦いの約4ヶ月後に発生し、『平家物語』や『方丈記』にその記述が見られ、『平家物語』には「この度の地震は、これより後もあるべしとも覚えざりけり、平家の怨霊にて、世のうすべきよし申あへり、」と記されている。また『玉葉』、『醍醐雑事記』、『歴代皇紀』、『吉記』、『山槐記』、『百錬抄』、『園太暦』、『康富記』、『一代要記』、『愚管抄』など京都で記された記録が多く、『吾妻鏡』のように鎌倉で記された記録も存在するが、これも京都の状況を記載したものであった〔古代中世地震史料研究会 地震・噴火史料データベース(β版)〕。 京都の震害が著しく、『醍醐雑事記』には白河辺りの諸御願寺や京中の殿屋などで九重塔や九輪などが大破した様子が記される。『吉記』には白河の法勝寺で金堂廻廓、鐘楼、阿弥陀堂および九重塔などが破損した被害が記述されている〔震災予防調査会編 『大日本地震史料』 丸善、1904年〕。その他、東寺では破損した鐘楼を文治3年(1187年)に修理した記録や『仁和寺御伝』による六条殿、一字金輪、於院御所の修理の記録がある〔。 『山槐記』によれば閑院の皇居が破損、近江湖(琵琶湖)の湖水が北流して湖岸が干上がり後日旧に復し、宇治橋が落下して渡っていた十余人が川に落ちて1人が溺死、また民家の倒壊が多く、門や築垣は東西面のものが特に倒壊し、南北面のものは頗る残ったという〔〔。法勝寺九重塔は倒壊には至らなかったものの、「垂木以上皆地に落ち、毎層柱扉連子相残らる」(『山槐記』)という大破状況であった。同書はその後の余震が続いたことを詳細に記録し、さらに、琵琶湖でも一時的に水位が下がったことなどを記す〔水野章二「中世の災害」/ 北原糸子編著『日本災害史』吉川弘文館 2006年 149、150ページ〕。 唐招提寺では千手観音の足柄墨書修理銘に文治元年7月の地動によって転倒したものを9月20日に修理したとあり、大和における被害とされる〔。『興福寺略年代記』にも「元暦二年七月九日、大地震、処々多顛倒」の記述がある。 比叡山では延暦寺根本中堂の輪灯が悉く消滅し、戒壇八足門、看衣堂、四面廻廊、中堂廻廊など諸建物が転倒するなどの被害が出た(『園太暦』)〔。 近江では大津の三井寺において金堂廻廊が転倒したことが『山槐記』に記され、田3町が地裂け淵になったという。遠国においても被害が発生し津波があったともいう〔宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年〕。 この地震は美濃、伯耆、三河でも有感であったとされる〔宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年〕。『山槐記』には「又自美濃伯耆等國來之輩曰、非殊之大動、」とある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「文治地震」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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