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元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。 中国王朝としての元は、北宋崩壊(1127年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。後述するように、元は政治制度や政治運営の特徴においてはモンゴル帝国に受け継がれた遊牧国家特有の性格が強く、一方で行政制度や経済運営の特徴は南宋の仕組みをほぼそのまま継承している。用語上でモンゴル帝国が伝統的な中国王朝の類型に変化したものであるというような誤解を避けるために、遊牧民の国を指すウルスという語を用いて特に大元ウルスと呼ぶべきであるとする意見もある〔以下にあるように、クビライによって国号が改められてから、同王朝では「大元」がひとつの固有のタームとして使用されていたことが近年の研究で明らかにされており、特にモンゴル帝国時代では形容詞の「大」が国家やモンゴル王室に関わるキータームであったことが判明している(モンゴル帝国での「大」の問題については、志茂碩敏『モンゴル帝国史研究序説』(東京大学出版、1995年)などに詳しい)。そのため、近年では「元」などでは呼称上からもモンゴル政権としての実態について不正確な認識を生むとして、モンゴル帝国史研究の杉山正明に代表される元朝関係の研究者の間で「大元ウルス」という呼称を用いる頻度が増えている。〕。 == 概要 == 元は、1260年、チンギス・カンの孫でモンゴル帝国の第5代皇帝に即位したクビライ(フビライ)が、1271年にモンゴル帝国の国号を大元と改めたことにより成立し、モンゴル語ではダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス (70px、ローマ字表記:''Dai-ön Yeke Mongγol Ulus'') すなわち「大元大蒙古国」と称した〔『元史』世祖本紀巻七 至元八年十一月乙亥(1271年12月18日)条の詔に、「可建國號曰大元、蓋取易經「乾元」之義。」とあり、『易経』巻一 乾 に「彖曰、大哉乾元、萬物資始。」とある。また、「ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス」という呼称の同時代的例証としては、以下の2つのモンゴル語碑文が知られている。ひとつは、かつての熱河省烏丹県(現中華人民共和国内モンゴル自治区赤峰市オンニュド旗烏丹鎮)付近にあった、至元四年五月(1338年5月20日- 6月18日)に魯国大長公主の媵臣であったという竹温台(Jigüntei)の功績を顕彰するために建立された"大元勅賜故諸色人匠府達魯華赤竹公神道碑(碑文本文冒頭では:大元勅賜故中順大夫諸色人匠都總管府達魯花赤竹公之碑)"で、その碑陰のウイグル文字モンゴル語文面に「大元(ダイ・オン)と呼ばれるイェケ・モンゴル・ウルス(70px、ローマ字表記:''Dai-Ön kemekü Yeke Mongγol Ulus'')」とある。もうひとつは、同じく同地にあった「至正二十三年歳壬寅十月吉日立石」(至正23年10月=1363年11月6日 - 12月5日)という記年がある、西寧王 忻都(Hindu/Indu)が建立した"大元勅賜追封西寧王忻都神道碑"で、やはりウイグル文字モンゴル語で「ダイ・オン・イェケ・モンゴル・ウルス(Dai-Ön Yeke Mongγol Ulus)」とある。(F. W. Cleaves "The Sino-Mongolian Inscription of 1338 in Memory of Jigüntei", ''Journal of Asiatic Studies'', vol.14, no.1/2 Jun., 1951, pp. 1-104./F. W. Cleaves "The Sino-Mongolian Inscription of 1362 in Memory of Prince Hindu", ''Journal of Asiatic Studies'', vol.12, no.1/2 Jun., 1949, pp. 1-113./前田直典「元朝行省の成立過程」『元朝史の研究』p.190(初出:「元朝行省の成立過程」『史学雑誌』56編6号、1945年6月)) 両碑文については田村実造「烏丹城附近に元碑を探る」(『蒙古学』1号,1937年、p.68-82, +2 plate)が詳しい。〕。つまり、1271年の元の成立は従来のモンゴル帝国の国号「イェケ・モンゴル・ウルス」を改称したに過ぎないとも解せるから、元とはすなわちクビライ以降のモンゴル帝国の皇帝政権のことである。国号である「大元」もこれで一続きの政権の名称として完結したものであったと考えられるが〔モンゴル帝国では、例えばモンゴル皇帝が主催するクリルタイを「大クリルタイ」(Yeke Qurilta ;Qūrīltāī-yiBuzurg ;大集会)と呼んだり、チンギス・カン以降の歴代モンゴル皇帝の墓所を「大禁地」(ghurūq-i buzurg)と呼ぶなど、モンゴル王家やモンゴル帝国の国政に関わる重要な事柄について、中国での行政用語である漢文では「大〜」、これと同義で支配階級が用い、勅令などでも使用されるモンゴル語では "Yeke ~" 、帝国全体で行政用語として広く用いられたペルシア語では "~ buzurg" という表現を附し、ひとつながりの固有名詞として用いていた。(志茂碩敏「モンゴル帝国の国家構造 第1章 amīr-i buzurg」『モンゴル帝国史研究序説』 東京大学出版会、1995年 p.451-476/ 志茂碩敏「モンゴルとペルシア語史書 -- 遊牧国家史研究の再検討 -- 」『岩波講座 世界歴史 11 中央ユーラシアの統合』岩波書店、1997年 p.263-268/ 杉山正明「序章 世界史の時代と研究の展望」『モンゴル帝国と大元ウルス』p.14-16)〕〔杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』p. 40-43/〕、中国王朝史において唐や宋など王朝の正式の号を一字で呼ぶ原則に倣い、慣例としてこのクビライ家の王朝も単に「元」と略称される。たとえば中国史の観念では元朝とはクビライから遡って改称以前のチンギス・カンに始まる王朝であるとされ、元とはモンゴル帝国の中国王朝としての名称ととらえられることも多い〔。 クビライが皇帝の位につく過程において、兄弟のアリクブケと帝位を争って内戦に至り、これを武力によって打倒して単独の帝位を獲得するという、父祖チンギスの興業以来の混乱を招いた上での即位であった。このため、それまで曲がりなりにもクリルタイによる全会一致をもって選出されていたモンゴル皇帝位継承の慣例が破られ、モンゴル帝国内部の不和・対立が、互いに武力に訴える形で顕在化することになった〔杉山正明『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』角川書店(角川選書)、1992年6月 p.179-189〕。特に、大元の国号が採用された前後に中央アジアでオゴデイ家(オゴタイ家)のカイドゥがクビライの宗主権を認めず、チャガタイ家の一部などのクビライの統治に不満を抱くモンゴル王族たちを味方につけてイリからアムダリヤ川方面までを接収し、『集史』をはじめペルシア語の歴史書などでは当時「カイドゥの王国」(mamlakat-i Qāīdū'ī)と呼ばれたような自立した勢力を成した〔 杉山正明「第2章 モンゴル帝国の変容」『モンゴル帝国と大元ウルス』p.119-120〕。帝国の地理的中央部に出現したその勢力を鎮圧するために、クビライは武力に訴えるべく大軍を幾度か派遣したが、派遣軍自体が離叛する事件がしばしば起きるという事態が続いた。この混乱は西方のジョチ・ウルスやフレグ家のイルハン朝といった帝国内の諸王家の政権を巻き込み、クビライの死後1301年にカイドゥが戦死するまで続いた。かくしてモンゴル皇帝のモンゴル帝国全体に対する統率力は減退して従来の帝国全体の直接統治は不可能になり、モンゴル皇帝の権威の形が大きな変容を遂げ、モンゴル帝国は再編に向かった。すなわち、これ以降のモンゴル帝国は、各地に分立した諸王家の政権がモンゴル皇帝の宗主権を仰ぎながら緩やかな連合体を成す形に変質したのである。こうした経過を経て、大元はモンゴル帝国のうちクビライの子孫である歴代モンゴル皇帝の直接の支配が及ぶ領域に事実上の支配を限定された政権となった。つまり、大元は連合体としてのモンゴル帝国のうち、モンゴル皇帝の軍事的基盤であるモンゴル高原本国と経済的基盤である中国を結びつけた領域を主として支配する、皇帝家たるクビライ家の世襲領(ウルス)となったのである〔杉山正明『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』角川書店(角川選書)、1992年6月 p.219-230〕。 一方中国からの視点で見たとき、北宋以来、数百年振りに中国の南北を統一する巨大政権が成立したため、遼(契丹)や金の統治を受けた北中国と、南宋の統治を受けてきた南中国が統合された。チンギス・カン時代に金を征服して華北を領土として以来、各地の農耕地や鉱山などを接収、対金戦で生じた荒廃した広大な荒蕪地では捕獲した奴隷を使って屯田を行った。また大元時代に入る前後に獲得された雲南では、農耕地や鉱山の開発が行われている。首都への物資の回漕に海運を用い始めた事は、民の重い負担を軽減した良法として評価される。元々モンゴル帝国は傘下に天山ウイグル王国やケレイト王国、オングト王国などのテュルク系やホラーサーンやマー・ワラー・アンナフルなどのイラン系のムスリムたちを吸収しながら形成されていった政権であるため、これらの政権内外で活躍していた人々がモンゴル帝国に組み込まれた中国の諸地域に流入し、西方からウイグル系やチベット系の仏教文化やケレイト部族やオングト部族などが信仰していたネストリウス派などのキリスト教、イラン系のイスラームの文化などもまた、首都の大都や泉州など各地に形成されたそれぞれのコミュニティーを中核に大量に流入した〔松田孝一「モンゴル時代中国におけるイスラームの拡大」『講座イスラーム世界 3 世界に広がるイスラーム』(板垣雄三 監修)栄光教育文化研究所、1995年1月、p.157-192/ 佐口透「第4章 東アジアのイスラム 第1節 元朝のイスラム教徒」『東西文化の交流 4 モンゴル帝国と西洋』(佐口透 編)平凡社、1970年 p.248-260〕。 モンゴル政権では、モンゴル王侯によって自ら信奉する宗教諸勢力への多大な寄進が行われており、仏教や道教、孔子廟などの儒教など中国各地の宗教施設の建立、また寄進などに関わる碑文の建碑が行われた。モンゴル王侯や特権に依拠する商売で巨利を得た政商は、各地の宗教施設に多大な寄進を行い、経典の編集や再版刻など文化事業に資金を投入した。大元朝時代も金代や宋代に形成された経典学研究が継続し、それらに基づいた類書などが大量に出版された〔宮紀子「第8章 「対策」の対策」『モンゴル時代の出版文化』p.380-484〕。南宋末期から大元朝初期の『事林広記』や大元朝末期『南村輟耕録』などがこれにあたる。朱子学の研究も集成され、当時の「漢人」と呼ばれた漢字文化を母体とする人々は、金代などからの伝統として道教・仏教・儒教の三道に通暁することが必須とされるようになった。鎌倉時代後期に大元朝から国使として日本へ派遣された仏僧一山一寧もこれらの学統に属する〔野口善敬「第2章 元・明の仏教」『新アジア仏教史 08 中国III 宋元明清 中国文化としての仏教』佼成出版社 2010年9月〕。 14世紀末の農民反乱によって中国には明朝が成立し、大元朝のモンゴル勢力はゴビ砂漠以南を放棄して北方へ追われたが(北元)、明朝の始祖洪武帝(朱元璋)や紅巾の乱を引き起こした白蓮教団がモンゴル王族などから後援を受けていた仏教教団を母体としていることに象徴されるように、影響を受けていたことが近年指摘されている〔野口善敬「第2章 元・明の仏教」『新アジア仏教史 08 中国III 宋元明清 中国文化としての仏教』佼成出版社 2010年9月〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「元 (王朝)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yuan dynasty 」があります。 スポンサード リンク
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