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元略(げん りゃく、486年 - 528年)は、北魏の皇族。東平文貞王。字は儁興。 == 経歴 == 中山王元英の四男として生まれた。才気で次兄の元熙に劣るものの、温和なことで知られた。員外郎から羽林監・通直散騎常侍・冠軍将軍・給事黄門侍郎に累進した。 520年(正光元年)、元叉が清河王元懌を殺害して権力を掌握すると、元略は懐朔鎮副将に左遷されることとなった。赴任する前に、兄の元熙が起兵して敗死したため、元略は逃亡して旧知の司馬始賓のもとに身を寄せた。司馬始賓は荻筏を作らせ、夜間に元略を盟津から黄河を渡らせ、上党郡屯留県の栗法光のもとを訪れさせた。栗法光はもとより信義に厚く、元略をかくまった。元略の旧知の刁双が西河郡太守となると、元略は刁双のもとを頼った。年を経て、甥の元昌とともに江南の梁に亡命した。梁の武帝の礼遇を受け、中山王に封じられ、宣城郡太守に任じられた。 525年(孝昌元年)1月、北魏の徐州刺史の元法僧が梁に降ると、武帝は元略を大都督に任じて彭城に赴かせ、元法僧の応接にあたらせることとした。元略は彭城の南で北魏の安楽王元鑑に敗れ、数十騎に討ち減らされて彭城に入った。武帝が豫章王蕭綜を徐州に駐屯させると、元略は元法僧とともに建康に呼び戻された。元略は江南にあっても、北魏の朝難を思って、涙を落とすことも少なくなかった。元法僧の性格を嫌って、元法僧と会話するときは笑いを見せることもなかった。元略は梁の衡州刺史に任じられたが、赴任しなかった。6月、蕭綜が北魏に降伏すると、蕭綜の長史の江革や司馬の祖暅や将士5000人は北魏の捕虜となった。526年(孝昌2年)、北魏の孝明帝は江革らを江南に帰す代わりに、元略を北魏に帰国させる交渉をおこない、武帝はこれを受け入れて元略を帰国させた。 5月、元略が洛陽に入ると、孝明帝の慰労を受け、侍中に任じられ、義陽王に封じられた。6月、東平王に改封され、車騎大将軍・左光禄大夫・儀同三司・領左衛将軍に任を受けた。まもなく驃騎大将軍・国子祭酒に転じ、さらに尚書令に上った。霊太后の信任を受けて、元徽と対等の扱いを受けた。当時の北魏の政界は多難であり、元略は保身につとめて、他者を裨益する方策を持たなかった。 爾朱栄は元略の姉の夫であったが、元略の粗忽な性格を嫌っていた。元略が鄭儼や徐紇らの仲間であったことも、関係をより険悪化させた。528年(建義元年)4月、爾朱栄が上洛し、河陰の変が起こると、元略は殺害された。享年は43。本官に加えて太保・司空・徐州刺史の位を追贈された。諡は文貞といった。 子の元景式が爵位を嗣ぎ、武定年間に北広平郡太守となった。北斉が建国されると、東平公に降格され、559年(天保10年)5月に殺害された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「元略」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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