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元禄地震(げんろくじしん)は、元禄16年11月23日(1703年12月31日)午前2時ごろ、関東地方を襲った巨大地震。 震源は相模トラフの房総半島南端にあたる千葉県の野島崎と推定され、東経139.8度、北緯34.7度の地点〔震度分布による推定で、断層破壊開始点である本来の震源、その地上投影である震央ではない。〕にあたる。マグニチュード(''M'')は7.9-8.5と推定されている。元禄大地震(げんろくおおじしん、げんろくだいじしん)あるいは元禄の大地震(げんろくのおおじしん)とも呼ばれ、大正関東地震に対比して元禄関東地震(げんろくかんとうじしん)の名称もしばしば使用される。 大正12年(1923年)に起きた関東地震(関東大震災)と類似のタイプの海溝型地震である上に、震源分布図も類似することから大正関東地震以前の相模トラフ巨大地震と考えられている。ただし、地殻変動は大正関東地震よりも大きいものであった〔〔大正関東地震の震源域に加えて、房総半島南東沖も震源域となる連動型地震であった可能性が指摘されている(''詳細は「相模トラフ巨大地震#再来間隔」参照'')。〕。大規模な地盤変動を伴い、震源地にあたる南房総では海底平面が隆起して段丘を形成した元禄段丘が分布し、野島岬は沖合の小島から地続きの岬に変貌したという。 江戸時代中期の元禄から宝永年間は巨大地震、噴火が続発した時期であり、本地震の4年後の宝永4年(1707年)には''M'' 8.4-8.6(''M''w 8.7-9.3)と推定される宝永地震、および宝永大噴火も発生している〔安藤雅孝(1974): 東海沖か房総沖で大地震, 科学朝日, 34, No.3, 34-37.〕〔K Mogi, 1980, Seismicit in western Japan and long-term earthquake forecasting, ''Earthquake Prediction, Maurice, Ewing Series'' 4, 43-52. A. G. U.〕〔石橋克彦『南海トラフ巨大地震 -歴史・科学・社会 』岩波出版、2014年〕〔小山真人 富士山噴火:過去の前兆や大地震との連動について 〕。 == 地震動 == 元禄十六年癸未十一月二十三日乙丑の丑刻(二十二日甲子夜丑刻)(1703年12月31日午前2時頃)関東地方諸国は激しい揺れに襲われた。古記録には日付が「二十二日夜丑刻」あるいは「二十二日夜八ツ」と記されているものも多く〔『日本地震史料 第二巻 別巻 元禄十六年十一月二十三日』〕、当時は一日の境界は厳密でなく、「夜丑刻」と現せば現代の暦法でいう夜半過ぎの翌日、丑刻の事を指す〔宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年〕〔都司嘉宣(1981): 元祿地震・津波(1703-XII-31)の下田以西の史料状況,地震 第2輯 Vol.34 (1981) No.3 P401-411, 〕。 『楽只堂年録』には「今暁八つ半時希有の大地震によりて吉保・吉里急て登城す、大手乃堀の水溢れて橋の上を越すによりて供乃士背に負て過く、昼の八つ時過に退出す、夜に入て地震止されば四つ時吉保、登城して宿直す」とあり、江戸城の大手門付近の堀の水が溢れるほどであったと記録されている〔。 尾張藩の御畳奉行、朝日文左衛門重章の日記『鸚鵡籠中記』には「丑二点地震。良久敷震ふ。而震返しあり。」とあり、名古屋において長い地震動があり、余震があったことが記されている。 また公卿近衛基熙の日記である『基煕公記』には「折々ひかり物、白気夜半に相見へ申候」と記され、夜中に発光現象があったことが記されている〔『大日本地震史料 上巻』〕。 また、甲府徳川家に仕えていた新井白石は『折りたく柴の記』において「我初湯島に住みし比、元禄十六癸未の年十一月廿二日の夜半過る程に地おびたゞしく震ひ、…」と地震の体験談を記している。 本地震と同日、ほぼ同時刻に豊後でも強い地震があり、府内領で潰家、由布院で被害が著しかった〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「元禄地震」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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