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光明電気鉄道(こうみょうでんきてつどう)は、かつて静岡県磐田郡中泉町(現・磐田市中泉)の鉄道省東海道本線中泉駅(現・磐田駅)に隣接する新中泉駅から、二俣町(現・浜松市天竜区二俣町)の二俣町駅までの19.8kmを結ぶ鉄道路線を運営していた会社である。光明村船明(ふなぎら、現・浜松市天竜区船明)まで開業させることを目的としたことから、この社名となった。 本項では、同社が運営していた鉄道路線についても記述する。 == 概要 == 北遠州地域の木材と、佐久間地区の鉱山(古河鉱業久根鉱山)からの鉱石輸送を目論んで設立された。会社側の構想では最終的には信州や日本海側にいたるまでの壮大な路線となる予定であったが、これは出資者獲得のために大風呂敷を広げたにすぎないと推察される〔1930年の経営陣 の中に両越銀行の関係者竹内啓三(頭取)、竹内省三(取締役)、菅谷繁(監査役) や越後銀行頭取兼大和川銀行取締役の岩崎徳五郎 など新潟、富山の人物がみられる(『日本全国諸会社役員録. 第38回』国立国会図書館デジタルコレクション)〕(当時の地方私鉄ではよくあった行為で、金名鉄道・大社宮島鉄道などが類似例)。しかし、鉄道の終点が鉱山からはるかに下流で輸送にならないとして、古河鉱業からの出資や運賃収入の6割を見込んでいた久根鉱山からの輸送は断られてしまった。 普通ならこれで建設を断念するのだが、一部の役員は建設を強行する。とはいえ事業に疑念を抱かれ資本金は集まらず、沿線の町村長に泣きついて資金を出してもらう有様で、その上に経営陣の内紛も起こり工事はなかなか進まなかった。 1928年(昭和3年)にようやく一部区間を開業させたが、開通記念式典は関係者に重々しい雰囲気だけが漂っていた。元々収入が見込めないまま見切り発車で開業させたことに加え、最新鋭の電車を新製するなど無謀な経営判断も重なって苦境に立たされた。結局東武鉄道の中古車を借り受けて辛うじて開業に漕ぎ着けたものの、そのような状態で二俣町 - 船明間の建設工事を強行した上に、開業区間もバスに押されて経営が完全に行き詰まった。最終的には送電停止に至り、競売にかけられ落札した高鳥順作〔明治元年新潟県生まれ。能生銀行頭取、中央電気株式会社取締役。衆議院議員、貴族院議員。孫の高鳥修、ひ孫の高鳥修一も衆議院議員に当選している。(略歴は『貴族院要覧』国立国会図書館デジタルコレクション より)〕による個人経営の路線となった。高鳥は営業を継続する意思は無く廃止手続きがすすめられることになった。電車を富山電気鉄道(現在の富山地方鉄道)に売却することにしたが〔電車3両は富山電鉄モハ301・302、モニ311となり、戦後まで富山地方鉄道本線系統で運用された。52kW級主電動機4基搭載の16m級という富山電鉄系在来中型車に比肩するスペックながらも木造車体であり、老朽対策として1949年から1950年にかけて富山の日本海ドックで鋼体化改造され、半鋼製車のモニ6571形6571-6573となった。1969年までに全車廃車。〕、それが廃止前(1935年9月20日頃搬出開始)だったことから当局から厳重注意される一幕もあった〔山崎寛「光明電気鉄道」89頁〕〔それにたいして高鳥順作は将来営業を開始する場合は電気動力を廃止して蒸気機関またはガソリン機関にすると回答している(「電動客車譲渡ノ件」『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・高鳥順作経営・営業廃止・昭和十年~昭和十一年』国立公文書館 デジタルアーカイブ で画像閲覧可)〕。電車を運転することができた運転士は当時貴重な人材だったため、各地の鉄道会社に転職して行った。開業から廃線まで僅か6年余りであり、社長が次々と交代する等波乱続きのまま推移し、社名とあまりに対照的な終焉ぶりから「悲劇の鉄道」「幻の鉄道」として語られることも多い。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「光明電気鉄道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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