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光田貞子 : ミニ英和和英辞書
光田貞子[ひかり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひかり]
 【名詞】 1. light 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

光田貞子 ( リダイレクト:木下双葉 ) : ウィキペディア日本語版
木下双葉[きのした ふたば]

木下 双葉(きのした ふたば、1910年8月9日 - 1938年8月30日〔無声映画鑑賞会、p.176.〕〔『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年、「木下双葉」の項。〕)は、日本の女優である。本名は光田 貞子(みつだ さだこ)で、初期は本名で活動していた〔〔。
== 人物・来歴 ==
1910年(明治43年)8月9日東京府東京市本所区押上町(現在の東京都墨田区押上)〔に「光田貞子」として生まれる〔〔。
1926年(大正15年)、名古屋キリスト教主義学校である旧制・金城女学校(現在の金城学院高等学校)を卒業し〔、東京に戻って、松竹蒲田撮影所に入社する〔〔。当時は本名を名乗っていた〔。1929年(昭和4年)、京都に移り、東亜キネマ京都撮影所に移籍した〔〔。1931年(昭和6年)9月、東亜キネマが経営不振に陥り、福西譲治監督の『霧の中の白蓮』を最後に〔''木下双葉''日本映画データベース、2009年11月9日閲覧。〕、同社の業務を代行する会社として設立された東活映画社(東活)に移籍する。入社第1作は、後藤岱山橋本松男堀江大生重政順の共同監督による『薩南大評定 万能篇』であった〔。翌1932年(昭和7年)、河合映画製作社から移籍した阿部九洲男の売り出し作品、古海卓二監督の『評判影法師』に木下も出演する〔。この後、木下は阿部と結婚している〔。同年10月には東活は早くも解散、人員の受け皿として設立された宝塚キネマ興行に移籍した〔。さらに翌年の1933年(昭和8年)7月、宝塚キネマで賃金未払いが起き〔御室撮影所 立命館大学、2009年11月9日閲覧。〕、夫となった阿部九洲男ともども同社を去り、河合映画の後身・大都映画に移籍した〔〔無声映画鑑賞会、p.127。〕。
大都映画では、幹部女優のひとりとして待遇され、琴糸路佐久間妙子とともに吉村操監督の『三巴女白浪』(1937年)に出演し、一文字お仙役で評判となった〔。
1938年(昭和13年)、佐伯幸三監督の『喧嘩屋五郎兵衛』を撮影中、盲腸炎を患って倒れる〔。同年8月30日、腹膜炎を併発して死去した〔。満28歳没。わずか10年のキャリアで140作以上に出演した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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