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児島 高徳(兒嶋 髙德、こじま たかのり)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍したとされる、備前国児島郡林村出身〔五弓久文(雲窓)『三備史略』巻之二 十九頁 香文舎蔵版 明治27年 「備前国児島郡林邑(現在の岡山県倉敷市林)ノ人児嶋範長高徳親子 範長備後守ニ任ス」〕の武将。従五位下・備後守を賜る。『太平記』中では和田、今木といった苗字で表記される場合もあり、「児島」を「小島」と書き換える表記も散見される。 元弘元年(1331年)の元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えた。晩年は出家し、志純義晴と号したという。正式な法名は志純義晴大徳位。 江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、国民的英雄のひとりとなった。その一方で具体的な活動を示す文献が軍記物語の『太平記』以外にはないために、近代的考証史学の観点から実在性を否定している学説も根強い。また、同書の編者である小島法師と同一人物とする説や、高徳を地元の山伏勢力出身と見る説もある。 == 出自 == 高徳の出自に関する説は、大別して二つある。すなわち皇胤という説と、渡来系の出という説である。前者は、後鳥羽天皇の後という説と、宇多天皇の後という説に分かれ、後者は天之日矛の後裔という説である。かつては、児島高徳という人物の確実な資料と出来るものは『太平記』ただ一つと言っても差し支えなく、高徳自体の存在が否定されてきたが、『太平記』の傍証となる史料などや、今木・大富・射越らの備前国邑久郡地方の土豪との一族であったことも考慮され、実在性に疑問を持つ人は少なくなっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「児島高徳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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