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児玉泰 : ミニ英和和英辞書
児玉泰[こだま やすし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [じ]
  1. (n-suf) child 
: [たま, だま, ぎょく]
  1. (n,n-suf) ball 2. sphere 3. coin
: [たい]
 【名詞】 1. Thailand  

児玉泰 : ウィキペディア日本語版
児玉泰[こだま やすし]

児玉 泰(こだま やすし、1935年7月19日 - )は、戦後に中日近鉄などで活躍した日本の元プロ野球選手。ポジションは投手1954年から1957年までは空谷 泰(そらたに やすし)。
== 来歴・人物 ==
松山商業ではエースピッチャーとして、1953年第35回全国高等学校野球選手権大会に出場。準決勝までの試合は全試合一人で投げて、すべて完封勝利で決勝進出。決勝は同じ四国土佐高校と対戦し、試合は9回を終わって2-2で延長戦となり、延長13回表に松山商業が1点を入れ、優勝を決めた。この試合もたった一人で13回を投げきっている。
1954年中日ドラゴンズへ入団して杉下茂服部受弘近藤貞雄らと共に中日初の日本一に貢献した。1958年には45試合に登板し、20勝11敗と素晴らしい記録を残している。1962年に近鉄に移籍してその年限りで引退。本当の姓は児玉だが、松山商業に進学したかったため、空谷家に野球養子として入ったので姓が空谷になった。その後、1958年から姓を児玉に戻している。
中日時代の1957年7月31日の対大洋ホエールズダブルヘッダー川崎球場)では第1試合に完投勝利を収め、球場内の風呂に入っていたところ、天知俊一監督が第2試合の先発投手の欄に別の投手の名前を書くつもりが、勘違いからメンバー表に児玉の名を書いて提出してしまった。場内放送でも案内されたために訂正がきかず、急遽風呂から出されてユニフォームに着替え、先頭打者を4球で打ち取ってようやくマウンドを降りることができた。
また、中日時代の1958年10月9日の対広島カープ戦(中日球場)では9回を投げて無安打無得点試合であったが、味方の援護がなく試合が延長にもつれ込み、11回表二死まで無安打を続けたが、11回表二死から拝藤宣雄に初安打を許し、快記録を逃したということもあった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「児玉泰」の詳細全文を読む




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