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児島 喜久雄(こじま きくお、兒島喜久雄、1887年(明治20年)10月10日 - 1950年(昭和25年)7月5日)は、白樺派の画家、美学・美術史の研究者。特にレオナルド・ダ・ヴィンチの研究により知られている。東北帝国大学助教授を経て、東京帝国大学・東京大学教授。 ==経歴== 1887年(明治20年)東京市四谷区舟町に児島益謙の5男として生れる。学習院初等科より里見弴と親しく、1903年(明治36年)、16歳の時に画家の三宅克己に入門。1908年(明治41年)里見らの回覧雑誌『麦』に参加。また第一高等学校在籍中には岩元禎のもとで学んでいた。 1909年(明治42年)東京帝国大学文科大学文学科に入学。同年、里見とともにバーナード・リーチにエッチングを習う。1910年(明治43年)に『白樺』の同人となる。1913年(大正2年)東京帝国大学文科大学哲学科(美学専修)を卒業。1914年(大正3年)第一回二科美術展覧会に(平日)入選。1921年(大正10年)学習院教授就任。同年7月から1926年(大正15年)まで欧州留学〔末永航「フィレンツェ、一九二四年秋――児島喜久雄とその時代」『イタリア、旅する心ー大正教養世代のみた都市と文化』青弓社、2005年、ISBN 978-4-7872-7196-9に詳しい。〕。留学中に東北帝国大学助教授に就任。1935年(昭和10年)より東京帝国大学助教授兼任となる。1937(昭和12年)東京帝大助教授専任となる。1941年(昭和16年)東京帝大教授就任。1950年(昭和25年)、心筋梗塞のため死去〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)12頁〕。 1921年(大正10年)から5年間の欧州留学では、著名な美術史家に接し、主に古代とルネサンス美術を研究し、特にレオナルド・ダ・ヴィンチに関する研究は世界的水準にあると注目された。一方、その研究は西洋美術に留まらない裾野の広いもので、児島の下からは多彩な研究者が巣立った。 日本古代史の研究者で、国立歴史民俗博物館初代館長だった井上光貞は、父親が児島と親交があった関係から、大学院進学前に児島の謦咳に接し、史学には歴史哲学の素養が重要であるとして、ドイツ語の関連原書を読むよう指導を受けたと回想している〔井上光貞 1982 「和辻先生と児島先生」『わたくしの古代史学』井上光貞著、文藝春秋 35~47ページ のち岩波書店刊著作集11〕。また、仏教美術史の町田甲一は、児島の指導を仰ぐことにした動機について、作品の具体的様式の歴史的変容を科学的に追究する美術史は、日本美術に関しては確立しておらず、西欧の学者に学ぶべきことが多いため、日本美術史研究を志す上で西洋美術史家の児島に就くことにしたと述べ、「いまでも私の学問上の本当の師匠は児島喜久雄先生ただ一人と思っている」と記している〔町田甲一 1986 「めぐりあいー児島喜久雄先生のこと」『仏像の美しさに憑かれて』私家版(保育社版もある)、374~379ページ〕。西洋美術史家で東京教育大学元教授・清春白樺美術館元館長の三輪福松やギリシア美術史の澤柳大五郎も教え子。東京帝大時代の同僚和辻哲郎も追想記「児島喜久雄君の思い出」を残している〔和辻哲郎1951「埋もれた日本」新潮社 のち「全集」第3巻、岩波書店〕。 東北大学附属図書館には、1956年(昭和31年)に寄贈された児島の旧蔵書が「児島文庫」として所蔵されている。白樺派の文人、画家の資料を多数収蔵する山梨県長坂町の清春白樺美術館において、1983年(昭和58年)の8月から9月に『白樺同人兒島喜久雄展』が開催。2007年(平成19年)11月20日から12月27日には、児島の生誕120年を記念して、『生誕120年 児島喜久雄と白樺派の画家たち』が開催。児島の遺族から寄贈された新収蔵資料等を展示し、児島による美術史研究とその画業が紹介された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「児島喜久雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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