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兒玉 次郎彦(こだま じろうひこ、天保13年6月14日(1842年7月21日) - 元治元年8月12日(1864年9月12日))は、幕末の人物。武士(徳山藩士)。徳山七士の一人。名は忠炳、号は青山また品山。徳山藩士・浅見栄三郎(正欽)の次男で、児玉氏に養われる。兄は同じく徳山七士である浅見安之丞。妻は明治時代の軍人・児玉源太郎の姉である兒玉久子。(なお、現在では通常児玉 次郎彦の表記の方が多い。「兒」は印刷字体、「児」は手書き書体)。 体躯強大で剣技・銃術に秀で、和漢の歴史に通じた。安政3年(1856年)、妻・久子、義弟・源太郎の父である児玉半九郎が死去すると、その家督を継いだ。万延元年(1860年)同じく徳山藩出身の飯田忠彦が幕府に罪を問われて、江戸に憂囚され、その著作である『大日本野史』及び『諸家系譜』などを伏見奉行・林忠交に取り上げられた時に、有栖川宮熾仁親王の命を奉じ、林邸に往来し、弁論数回にしてこれを取り返した。萩藩の久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎らと親交があった。 文久2年(1862年)、河田佳蔵らと同じく京都に入って周旋方となり、翌文久3年(1863年)帰国して目付役に任じられ、京都留守居役を兼ねた。同年6月に姉小路公知が暗殺され(朔平門外の変)、京都が騒然となると藩主の命で直ちに上京したが、8月に帰藩し、12月に藩校鳴鳳館の助訓役兼寮長となり、尊攘の大義を説いて後進の子弟を教育した。 元治元年(1864年)7月14日、大坂で禁門の変の報を聞き、切歯して帰国したが、8月9日に河田佳蔵らが保守派の富山源次郎の暗殺に失敗すると、次郎彦もまたその一味と目され、8月12日の早朝に保守派によって自宅で暗殺された。享年23。 次郎彦の死によって児玉家は家名断絶となったが、藩論回復後、徳山藩主・毛利元蕃は、徳山七士の家を復興し、その遺族を優遇した。児玉家は再興され、25石で新たに召し抱えられる。明治31年(1898年)に、徳山七士の7名全員に従四位が贈られた。また、元藩主のたっての願いで徳山七士全員は明治天皇の命によって例外的に靖国神社に合祀された。周南市の児玉神社には七士の顕彰碑(初めは遠石地区に建てられた)と贈従四位の碑が建っている。 墓所は、興元寺の墓地である通称・隠居山墓地の一角の児玉家墓所にある。戒名は「一休院義岳了忠居士」。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「兒玉次郎彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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