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入来院 定恒(いりきいん さだつね)は、江戸時代中期の薩摩藩士。薩摩入来領主、入来院氏23代当主。 == 生涯 == 正徳3年(1713年)12月30日、入来院明雅の次男として生まれる。享保7年(1722年)、鹿児島城に登城し元服する。藩主・島津継豊が加冠役、北郷久嘉が理髪役を務めた。以後、右近重教(しげのり)と名乗る。 享保10年(1725年)、明喬(あきたか)と改名する〔将軍家世子・徳川家重の元服によるもの。江戸時代には、将軍の諱やその字の訓読みは藩主レベルでも将軍が下賜しない限り使用しない慣習があり、長州藩の毛利重就や桑名藩の松平定猷のように、藩主でも改名や読みを変える場合があった。薩摩藩では将軍や藩主の本名の字を使ってならないという藩法がある(「薩藩政要録」参照)。これにより通字が「重」の字であった薩摩の渋谷氏一族(他には東郷重治(実満)一族など)は一斉に改名している。なお、「明」の字は入来院家第2代当主の入来院明重(あきしげ)、「定」の字は初代当主(始祖)の入来院定心(じょうしん)にちなんだものである。〕。享保16年(1731年)、定火消となる。享保21年(1736年)、定恒と改名する。元文3年(1738年)12月27日没。享年26。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「入来院定恒」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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