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入江文郎 : ミニ英和和英辞書
入江文郎[いりえ ぶんろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [にゅう]
 【名詞】 1. go in 
入江 : [いりえ]
 【名詞】 1. inlet 2. cove 3. creek 4. bay 
: [こう, え, ごう]
 【名詞】 1. inlet 2. bay 
: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 

入江文郎 : ウィキペディア日本語版
入江文郎[いりえ ぶんろう]

入江 文郎(いりえ ぶんろう / ふみお〔日本国内の仏文史料には「Bunrau」、フランスでの史料には「Fumio」と記されており、それぞれ本人による使用も確認できるという。田中貞(2014)、515頁参照。〕、1834年5月16日天保5年4月8日) - 1878年明治11年)1月30日)は江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本フランス学者。旧松江藩士。旧名・泉、を原伯といい、観寮(かんりょう)とした。本姓は劉〔桃(1989)、7頁、147頁。〕。
幕末におけるフランス学先駆者の一人であり〔田中隆(1999)、3頁。〕、幕府蕃書調所(のち開成所)教授方となってフランス語の翻訳と指導に従事。明治に入ると新政府大学教官としてフランスに派遣され、研究のかたわら留学生総代を務めたが、病のためパリで客死した。
== 来歴 ==
天保5年4月8日1834年5月16日)、松江藩医入江元範の子として出雲国島根郡松江に生まれる。支藩広瀬藩の藩儒山村黙斎、次いで松江藩儒妹尾謙三郎(雨森精斎)に学び、嘉永7年(1854年)から江戸に遊学。奥医師竹内玄洞に就いて蘭学を修めた。安政4年(1857年)、父・元範が重病との知らせを受けて帰国。父の死去により家を継いで藩医となったのち、翌安政5年(1858年)から再び江戸に遊学した。万延元年(1860年)の冬には50日間横浜に遊学し、フランスの通訳官アンリ・ヴーヴ(Henri Weuve)からフランス語を学んでいる〔田中隆(1999)、5-7頁、1頁。藤田(1948)、96-99頁。〕。
文久元年(1861年)、幕府洋学研究教育機関・蕃書調所(文久2年5月に洋書調所、文久3年8月に開成所と改称)の教授手伝出役に採用され、林正十郎、小林鼎輔とともにフランス学を担当。翌文久2年(1862年)3月に幕府外国方翻訳掛を兼ねた〔宮地正人混沌の中の開成所 」(東京大学編 『学問の過去・現在・未来 第一部 学問のアルケオロジー』 東京大学〈東京大学コレクション〉、1997年12月、ISBN 4130202057)26頁、34頁。倉沢剛著 『幕末教育史の研究 一 直轄学校政策』 吉川弘文館、1983年2月、ISBN 4642032517、289頁。〕。また文久2年中には再び横浜のヴーヴのもとに100日間遊学〔高橋(1982)、225-227頁。田中貞(2014)、448-451頁。〕。12月に江戸に戻ると藩からも洋学教授方を命じられ、同じ蕃書調所教授方の松江藩士間宮観一、布野雲平の2人とともに江戸藩邸で指導に当たった〔桃(1989)、6-7頁、9頁。倉沢剛著 『幕末教育史の研究 三 諸藩の教育政策』 吉川弘文館、1986年4月、ISBN 4642032533、306-308頁。〕。慶応2年12月(1866年2月)、旗本に取り立てられ開成所教授職並に昇進〔前掲宮地、38頁。前掲倉沢(1983)、289頁。〕。次いで三兵伝習所での翻訳業務のため林正十郎とともに横浜への派遣を命じられ、教授方のまま開成所勤務を離れた〔東京外国語大学史編纂委員会編 『東京外国語大学史 東京外国語大学、1999年11月、33頁。前掲宮地、38頁。前掲倉沢(1983)、250頁。〕。三兵伝習所江戸移転後の慶応3年(1867年)10月には陸軍所勤務となり、翌慶応4年(明治元年・1868年)3月に陸軍御用兼勤を免じられるまでフランス軍事顧問の文書翻訳に従事〔前掲東京外国語大学史編纂委員会、33頁。桃(1989)、9頁。〕。幕府崩壊後の同年7月、職を辞して松江藩籍に戻った〔田中隆(1999)、10頁。〕。
明治元年12月、新政府により開成所の官制が改められると開成学校二等教授として復職。翌明治2年(1869年)、寄宿寮総取締を命じられた〔倉沢剛著 『学制の研究』 講談社、1973年3月、56-58頁。国立公文書館所蔵 「職務進退・職務進退部類 」。〕。開成学校を包括する大学校(ほどなく大学と改称)の官制が定められた同年7月には大学中博士に就任。大学南校の変則課程でフランス学を担当した〔前掲倉沢(1973)、58頁、45-46頁。田中隆(1999)、80頁。加太邦憲編輯 『加太邦憲自歴譜』 加太重憲、1931年1月、83頁 。〕。その後、大学に代わり文部省が新設された明治4年(1871年)7月に文部中教授に更任されたのち、翌年9月の官制改革で文部省六等出仕となった〔前掲倉沢(1973)、269-271頁、664-665頁。「文部大丞田中不二麿以下五名洋行中ニ付免官ニ不及ノ件 」(国立公文書館所蔵 「諸官進退・諸官進退状第十巻」)。田中隆(1999)、11-12頁。〕。
この間、明治4年1月に大学中博士鈴木暢(唯一)、大学大助教小林儀秀(小太郎)とともに学術研究のため1年ほどの予定で欧州派遣を命じられ〔東京大学百年史編集委員会編 『東京大学百年史 通史一』 東京大学、1984年3月、ISBN 4130010514、168-169頁。前掲倉沢(1973)、215-216頁。〕、翌2月に横浜を出港。マルセイユを経て7月(1871年8月)にパリに到着し、はじめ第1区に滞在。ほどなく第6区のホテル・サン=シュルピスに移った〔田中貞(2014)、461-465頁。藤田(1948)、100-102頁。田中隆(1999)、65頁、54頁。〕。既にオーギュスト・コントに傾倒し哲学を研究していた入江は、パリではコントの定めた修学順序に従って諸学科を復習したという〔田中隆(1999)、15頁。〕。また岩倉使節団の文部理事官随員今村和郎がフランスでの学制調査のため米国を後にした明治5年1月(1872年3月)には、文部理事官が担当する調査の分担を命じられた〔小林哲也 「『理事功程』研究ノート」(『京都大学教育学部紀要』第20号、1974年3月、)84頁、86頁。田中隆(1999)、11頁。〕。同年6月(1872年7月)、入江、鈴木、小林の3人に帰国命令が発せられたが、入江は2年間の延長を願い出て滞在を継続〔田中隆(1999)、11頁、83頁。明治5年7月付木戸参議宛入江願書(国立公文書館所蔵 「単行書・大使書類原本在英雑務書類 」 62-63コマ、149-150コマ)。明治5年9月13日付在英木戸参議宛入江書簡(木戸孝允関係文書研究会編 『木戸孝允関係文書 1』 東京大学出版会、2005年10月、ISBN 4130979914)。明治6年4月19日付大木文部卿上申(国立公文書館所蔵 「単行書・大使書類原稿本朝公信・人 」 23コマ)。明治6年4月22日発本朝公信第53号(外務省調査部編纂 『大日本外交文書 第六巻』 日本国際協会、1939年6月、37-38頁 )。明治6年7月3日発大使公信第28号(同、66-68頁 )。「仏国在留入江六等出仕帰朝ノ儀伺 」(国立公文書館所蔵 「公文録・明治七年・第百七十一巻」)。〕。明治6年(1873年)2月に在仏弁理公使鮫島尚信から栗本貞次郎の後任として留学生総代を命じられ、以後フランス留学生たちの世話に当たったほか〔高橋(1982)、220-222頁、230-232頁。藤田(1948)、102-103頁。田中隆(1999)、82頁。田中貞(2014)、499-509頁。〕、文部理事官帰国後もパリ東洋語学校教員としてフランスに残っていた今村とともに、同年9月にパリで開かれた第1回国際東洋学者会議に参加している〔飯田史也著 『近代日本における 仏語系専門学術人材の研究』 風間書房、1998年2月、ISBN 4759910778、48-56頁。桃(1989)、157頁。〕。
明治6年12月、海軍省派遣をのぞく官費海外留学生の一斉召還が決定され〔石附実著 『近代日本の海外留学史』 ミネルヴァ書房、1972年9月、ISBN 4623007464、177-178頁。井田(1987)、139-142頁。前掲倉沢(1973)、788-791頁。〕、翌明治7年(1874年)6月には入江にも再び帰国命令が発せられたが、病のため出発を延期。療養のため私費で滞在を続けた。しかし、ついに帰国することなく明治10年(1877年)1月の官制改革の際に文部省を退官〔田中隆(1999)、12-13頁、85頁。前掲 「仏国在留入江六等出仕帰朝ノ儀伺」。「入江文郎月給ヲ辞スル儀ニ付伺 」(「公文録・明治九年・第四十四巻」)。前掲倉沢(1973)、814頁、825頁。「入江元文部省六等出仕満年賜金給与届 」(「公文録・明治十年・第九十六巻」)。〕。明治11年(1878年1月30日、喉頭結核のため宿舎のホテル・サン=シュルピスで死去し、パリのモンパルナス墓地に葬られた。享年45〔田中貞(2014)、467-468頁。富田(1979)、116-120頁。藤田(1948)、114-115頁。田中隆(1999)、13-15頁、86頁。〕。没後、モンパルナス墓地と島根県能義郡広瀬町の洞光寺に墓碑が、東京青山墓地に記念碑が建設された〔富田(1979)、130-132頁。『法政大学史資料集』第26集。〕。
入江は生涯独身であったため、入江家は姉・しずの三男美弥三郎が相続し、のちに入江元義と名乗った〔田中貞(2014)、515頁。田中隆(1999)、15頁、87-90頁。〕。陸軍軍人であった元義の子には、陸軍少将入江元、陸軍中将堀井富太郎夫人知恵子がいる〔田中隆(1999)、93頁。〕。なお、留学生名簿や『西航備忘録』を含む文書、写真、名刺などの入江関係資料が現存しており、これらは入江家から島根県立博物館(現・島根県立古代出雲歴史博物館)に寄贈されている〔田中隆(1999)、16-17頁。、島根県報道発表資料 、 平成17年3月4日分。小川、107頁。〕。また国立国会図書館憲政資料室が所蔵する辻新次関係文書にも関係資料が含まれている〔『国立国会図書館月報』第336号、1989年3月、28-29頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「入江文郎」の詳細全文を読む




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