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入野義朗(いりの よしろう、1921年11月13日 - 1980年6月23日)は日本の作曲家。若い頃の名前は「義郎」であり、1958年以降、現在の名前に改名(戸籍上も改めたのか、そうでないのかは不明)。 ==経歴== 旧ソビエト連邦のウラジオストクに生まれる。東京高等学校を経て東京帝国大学経済学部を卒業。第二次世界大戦後、柴田南雄や戸田邦雄とともに十二音技法を研究し、1951年にはこの技法を用いた「七つの楽器のための室内協奏曲」を作曲した。この曲は日本において、十二音技法で書かれた最初の作品と称されている〔『日本の作曲20世紀』(音楽之友社)142頁や、現代日本のオーケストラ音楽第28回演奏会プログラム など。『日本の作曲20世紀』において、入野の項目を担当した高久暁は、この作品以前に十二音技法による試作が行われていた可能性を指摘している。日本における十二音技法の受容については、長木誠司が『レコード芸術』に2005年から翌年にかけて連載した「日本の十二音技法 」に詳しい。〕。同時期、『音楽芸術』に「シェーンベルクの作曲技法」、「十二音音楽とは何か」を発表する。以後、彼は、この技法を多くの作品で使用するとともに、海外の現代音楽や音楽文献を、日本の音楽界に紹介することに尽力した。しかしながら当時ダルムシュタットで隆盛していたセリエル音楽を作曲することはなかった。 「シンフォニエッタ」(1953年)で第6回毎日音楽賞を、「2つの弦楽器群と管・打楽器群のための合奏協奏曲」(1957年)と「シンフォニア」(1959年)で尾高賞(第6回と第8回)を受賞。 彼の死後、入野賞、「入野義朗記念賞」が設けられ、ともに若い作曲家のための登竜門として今日まで存続し続けている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「入野義朗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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