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八九式中戦車 : ミニ英和和英辞書
八九式中戦車[はちきゅうしきちゅうせんしゃ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やつ]
 (num) eight
: [く]
  1. (num) nine 
: [しき]
  1. (n,n-suf) (1) equation 2. formula 3. expression 4. (2) ceremony 5. (3) style 
: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦車 : [せんしゃ]
 【名詞】 1. tank (military vehicle) 
: [くるま]
 【名詞】 1. car 2. vehicle 3. wheel 

八九式中戦車 : ウィキペディア日本語版
八九式中戦車[はちきゅうしきちゅうせんしゃ]

八九式中戦車(はちきゅうしきちゅうせんしゃ)は、1920年代後期に開発・採用された大日本帝国陸軍戦車中戦車)。日本初の国産制式戦車として開発・量産された。秘匿名称「イ号」(「ロ号」は九五式重戦車日本戦車記事『ロ号車は九五式重戦車』 〕、「ハ号」は九五式軽戦車)。
== 開発 ==

先の試製一号戦車の成功を受け、戦車の国産化に自信を深めた陸軍であったが、試製一号戦車は18トンという大重量であった。1925年(大正14年)から1935年(昭和10年)まで、陸軍には軽戦車重戦車の区分しかなく、
*軽戦車=ルノ-戦車に類するもの=10トン以内
*重戦車=英国中型戦車に類するもの=20トン以内
と決められていた。
日本は、軽戦車を主力とし、軽戦車より重い戦車は重戦車に分類し、数は少ないが軽戦車を補完する役割とし、軽戦車(主力・多数)と重戦車(補完・少数)の二本立てで、戦車隊を整備する方針であった。そこで1928年(昭和3年)3月28日に、新たに10トン程度の軽戦車を開発することを決定し、試製一号戦車の成果を基に1927年(昭和2年)に輸入したイギリスビッカースC型中戦車を参考にして開発することになり、同時に重戦車(後の試製九一式重戦車)の開発も決定している。
開発は陸軍技術本部第四研究所で1928年(昭和3年)3月に始まり、同年4月に設計要目が決定、8月に概略設計図面が出来上がり、直ちに陸軍造兵廠大阪工廠に発注され1929年(昭和4年)4月に試作車(試製八九式軽戦車1号機)が完成した。
以後の量産は改修型も含め、民間企業である三菱航空機(1928年(昭和3年)に三菱内燃機から改称。のちの1934年(昭和9年)に三菱造船と合併し三菱重工業となる)にて行われた。1929年(昭和4年)12月1日に三菱航空機は、戦車工場として大井工場を新設し、名古屋製作所芝浦分工場と併せて東京製作所とした。1931年(昭和6年)の満州事変後、日本製鋼所神戸製鋼所汽車製造株式会社〔汽車製造株式会社製の八九式は部隊からは不評だったといわれている。〕も生産に関わるようになった。1937年(昭和12年)には下丸子に三菱重工業東京機器製作所丸子工場が新設され、1938年(昭和13年)に陸軍指定の戦車専門工場として稼働し、国産戦車の6割を生産するようになる〔当時から下丸子は一大工業地域であり、主な工場として、1928年(昭和3年)に三井精機の前身である津上製作所(工作機械製造)、1934年(昭和9年)に北辰電機(光学工業)、1935年(昭和10年)に日本精工kk(ボールベアリング製造)、1937年(昭和12年)にキヤノン光学kkなどが移転してきた。これらの工場の多くは、1943年(昭和18年)に軍需会社法により軍需工場に指定された。〕。
1929年10月には東京青森間、660キロメートルの長距離運行試験に成功し、同年同月に八九式軽戦車として仮制式化(仮制定)された。初期試作車は、予定通り重量が9.8 tにおさまったため軽戦車に分類されたが、部隊の運用経験から度々改修が施され(この改修によって機動性は悪化している)、最終的な完成形では車体重量が11.8 t に増加した結果、分類基準の10 tを超えてしまった。さらに八九式軽戦車よりも軽量な九五式軽戦車が開発されたため新たに中戦車の区分が設けられ、1935年(昭和10年)9月13日に制式名称を八九式中戦車と改定(再分類)されている。
また、のちの九七式中戦車(チハ車)の頃からカタカナ2文字の秘匿名称(試作名称)を付すようになり、さかのぼって八九式中戦車には甲型にチイ、乙型はチロとされた。この「チ」は中戦車、「イ」はイロハ順で1番目を意味する。しかし命名が遅過ぎたためか、実際に運用部隊等でチイ、チロと呼ばれることはなかったようである。陸軍第四研究所の戦後回想録の付表では、甲型も乙型も「チイ」と表記されており、「チロ」の命名については疑問視する声もある。
試作車が完成し仮制式化されても、試作車の改修や、日本で初めての戦車の量産故に、すぐには量産体制が整わず、八九式軽戦車の生産は遅々として進まず、間に合わせとして、1930年(昭和5年)に、フランスからルノーNC27軽戦車を10輌(12輌説あり)輸入したが、装甲厚を除き攻撃力や対射撃抗堪性・走行性能など総合性能は、八九式軽戦車の方が優れていた。生産数は甲型が1934年(昭和9年)までに220輌、乙型が1935年(昭和10年)から1939年(昭和14年)にかけて184輌以上である(甲型が1930年(昭和5年)から1935年(昭和10年)にかけて283輌、乙型が1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にかけて126輌、総計409輌との説あり)。
八九式は軽戦車と中戦車の二面性を持つ戦車であり、のちに軽戦車としての後継として九五式軽戦車が、中戦車としての後継として九七式中戦車が開発・採用されている。
== 設計 ==

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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