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八十嶋 冨五郎(やそしま とみごろう、1760年〈宝暦10年〉 - 1819年11月21日〈文政2年10月4日〉)は、枝川部屋(大坂相撲)及び追手風部屋に所属した元力士〔http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3176&l=j〕。 本名は三輪屋と伝わる。身長,体重は不明。現在の大阪府大阪市(旧・摂津国東成郡)か堺市(旧・和泉国大鳥郡)出身。 最高位は西前頭3枚目。 大坂相撲でデビューし、1796年10月初土俵(幕内附出し)。しかし現役中は、幕内と十両を往復するエレベーター力士だった。1804年3月以降ずっと十両暮らしで、1805年10月以降ずっと負け越しが続いた。晩年の1814年11月~1818年2月にかけて当時のワースト記録である26連敗〔30戦全敗!(ブログ・相撲史に関心・興味のある方どうぞ 2011年1月14日記事) ※但し、所々に記録の散佚が見られ、不明な箇所も多い。このワースト記録は同場所9日目に四海浪吉五郎が27連敗をマークし、あっさり更新された。〕を記録した。それでも驚異の持久力を誇り、鉄人とあだ名された。1819年3月場所後の10月4日に現役中のまま60歳(数え)で死去。1757年以降で明確に記録に残っている力士の中では最年長力士であり、また現役死した力士においても最年長〔最短命の力士は魁士豊(15歳178日。1992年7月14日に急性心筋梗塞で死去。)である。但し看板大関を除く。〕であった。 幕内通算 5場所 13勝21敗1分3預1無7休の成績を残した。錦絵が現存している〔相撲古美術のHP 〕。 改名歴は3回ある:若虎 → 八十島 嘉六 → 八十島 留五郎 → 八十島 冨五郎〔 土俵上では豪快だったが、私生活では茶道や俳諧を楽しむ風流人であり、表千家不臼の門下で「東西庵八十嶋」と号した〔〔角界の゛鉄人゛たち(ブログ・星ヶ嶺、斬られて候 2010年12月8日記事) 〕。 == 出典 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「八十嶋冨五郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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