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八幡城の合戦 : ミニ英和和英辞書
八幡城の合戦[はちまんじょうのかっせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やつ]
 (num) eight
八幡 : [はちまん]
  1. (adv,n) God of War 2. Hachiman 
: [しろ]
 【名詞】 1. castle 
: [ごう]
 【名詞】 1. go (approx. 0.18l or 0.33m) 
合戦 : [かっせん]
 【名詞】 1. battle 2. engagement 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

八幡城の合戦 : ウィキペディア日本語版
八幡城の合戦[はちまんじょうのかっせん]

八幡城の合戦(はちまんじょうのかっせん)は、慶長5年(1600年)に遠藤慶隆金森可重稲葉貞通遠藤胤直との間で行われた美濃国郡上郡八幡城を巡る攻防戦。関ヶ原の戦いの前哨戦の一つ。
== 概要 ==
豊臣秀吉の死後、慶長5年(1600年)に石田三成徳川家康に対して挙兵すると、美濃国では岐阜城織田秀信が三成方(西軍)に加担し、郡上郡八幡城主の稲葉貞通は、家康西上を阻止するため犬山城に入った。小原(現加茂郡白川町)の遠藤宗家の慶隆と、犬地(同白川町)の胤直の両遠藤も共に秀信に招かれ西軍加担を勧誘されたが、慶隆はかつて八幡城主だったのを秀吉に改易された経緯もあり、弟の慶胤らと協議の上、家康方(東軍)に加担することを決めた。しかし、胤直は秀信に加担を約し、上ヶ根に布陣した。慶隆はこれに対し子の慶勝を妙観寺に置いて守備させた。
慶隆が八幡城奪還を家康に願い出ると、胤直の西軍加担を知らなかった家康から、7月29日に郡上を両遠藤に与える許可が届いた。慶隆は佐見村吉田に布陣し、上ヶ根に対峙した。一方、胤直には秀信から鉄砲30丁と弾薬が送られ、慶隆への攻撃が開始された。また、江戸にいた慶隆の娘婿金森可重は、家康の命で急遽本領の飛騨に戻ると、自身が坂本口から、別働隊が白川口から進入し、9月1日に八幡城を総攻撃する旨を慶隆に報せ、合流を促した〔。
八幡城では貞通が留守なため、末子の通孝が寡兵で守備しており、兵の不足を補うため領内の浪人・町人・農民の壮年者のほとんどを動員して、各所を固めた。8月28日、慶隆は兵400余人を率いて小原を出陣し、稲葉勢の防備を避けて飛騨川を渡河して前進を続け、麻ヶ滝(現下呂市金山町)で稲葉勢守備隊を撃破すると、二隊に分かれて法師丸と野尻(旧和良村)に着陣した。また、慶隆の弟慶胤らは、400余の兵で沓部口から攻め入った。このころ稲葉貞通は、旧交のあった福島正則から密書により東軍参加を勧められ、それに従った。そこで正則は、井伊直政らを介して慶隆・可重に八幡城攻撃の中止を求めたが、慶隆らはすでに出陣していた上、貞通が未だ犬山にあって後背も知りがたいと返答した。9月1日には、慶隆軍は法師丸を出た後、楢ヶ峠で伏兵の銃撃を受け、転進して赤谷に布陣すると、そのうちの一隊が中野を焼き払った〔。
一方、金森可重の援軍は、坂本口から久須見(旧明宝村)に至って、稲葉勢に出会い戦闘を避けて転進し、滝山(現郡上市八幡町小野)に布陣した。金森軍別働隊は、五町山に登って陣を構え、赤谷の慶隆と合わせて三方から八幡城を攻撃する態勢が整った。
同9月1日、遠藤軍は吉田川を渡り、守備側の柵を突破して、一隊が城の裏木戸に、慶隆本隊は大手に向かった。可重軍は城北の搦め手に迫ったが、二重の濠に阻まれ、双方戦闘を繰り返すも決着しなかった。その間、慶隆隊は大手から一の門に接近し、城内からの射撃に応戦の末、門内に乱入。裏木戸の守備兵を撃破した別隊も、二ノ曲輪に突入した。一方、可重の一隊は二の丸に進撃したが、城兵の防戦に阻まれ、東木戸を破って二ノ曲輪に進入した。そのため、遠藤・金森両軍が誤ってしばらく同士討ちをしてしまうが、やがて連合して二ノ門から二ノ丸の攻撃を開始した。また、搦め手でも金森軍と稲葉軍との攻防戦が続き、多数の死傷者を出した。日が暮れても両者の勝敗はつかず、寄せ手はそれぞれの陣営に退却した。
慶隆と可重は協議の結果、城中へ軍使を派遣して降伏勧告し、翌2日、両軍の和議が成立。慶隆は愛宕山に本陣を移した。そこへ、8月21日付けの家康からの書状が届き、今度は慶隆一人に対して郡上一円が安堵された。ところが、急を告げられた犬山の稲葉貞通が郡上に向かい、長子典通や中山城主の稲葉忠次郎もこれに従って、9月3日未明に八幡へ到着した。その朝は霧が深かった上、和睦直後で油断していた愛宕山の遠藤勢は、稲葉勢に急襲され、遠藤慶重(長助)・鷲見保義(忠左衛門)・粥川五郎左衛門・粥川小十郎・餌取作助の五人が奮戦の末犠牲となって、慶隆はやっとのことで小野山の可重の陣まで逃げ延びた。あるいは、慶隆側は油断してはおらず、川の対岸の稲葉勢が鉄砲を撃ちかけて渡河を始めると、同じく鉄砲で応戦し、稲葉勢の多くは川中で討死したものの、ついには愛宕を攻められて乱戦となり、慶隆は家臣に背負われ脱出。双方激戦で多数の死傷者を出した末、夜に入ってお互い退陣したともいう〔。貞通は八幡城に入ったものの、翌4日城中から使者を送り、再度和議が成立した〔。
慶隆は直ちに兵を東濃に戻すと、9月5日に上ヶ根の砦を攻撃し、胤直を降伏させ、使者を信濃の下諏訪にいた徳川秀忠に送って戦況を報告し、自身は家康の下に向かった。秀忠からは感状が届き、慶隆は14日に赤坂(現大垣市)の家康本陣に到着して、家康と面会を果たし、戦況報告をした後、東軍に合流した。慶隆に降伏した貞通は伊勢に退き、家人の片桐智法が城に残っていたが、慶隆が復帰したことが知れ渡った郡上の各地では、稲葉氏の家人に乱暴を働く者が出て小競り合いが起こったが、稲葉氏家臣はこれに黙して耐えた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「八幡城の合戦」の詳細全文を読む




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