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八戸事件〔本文中でも触れている通り、事件の原因となった記事の筆者「八戸順叔」の読み方が不明なため、本項では記事名の読みを掲示していない。〕は、同治5年12月(1867年1月)に清国広州の新聞『中外新聞』に掲載された、「八戸順叔」なる香港在住の日本人が寄稿した征韓論の記事がきっかけとなり、日本と李氏朝鮮および清国との間の外交関係を悪化させた事件である。征韓論は江戸時代末期(幕末)の吉田松陰や勝海舟らの思想にその萌芽が見られるが、現実の外交問題として日清朝三国に影響を及ぼしたのはこの八戸事件が最初である〔姜1990、259頁。〕。さらにこの事件はその後も10年近く尾を引き、後の江華島事件における両国間交渉にまで影響を及ぼした。 ==事件の発生== ===衝撃の新聞記事=== 同治5年12月12日(グレゴリオ暦では1867年1月17日)、清国の広州(広東省)で発行されていた『中外新聞』という華字新聞に、イギリス領香港に在住する八戸順叔という日本人が「征韓論」めいた記事を寄稿した。日本(江戸幕府)は軍備を西洋化し、朝鮮を征討しようとしているとする記事である。清国の外交を担当する総理各国事務衙門(以下、総理衙門)は、外国人が開港場で発行する新聞の内容を上海の南洋通商大臣、天津の北洋通商大臣および各税務司に毎月報告させて情報源としており〔佐々木2000、18頁。〕、この記事もただちに弁理五口通商事務大臣に届けられ、総理衙門へも報告された〔李2009、12頁。〕。総税務司ロバート・ハートからも詳細が報告されている〔。 これらの情報を受け、翌同治6年2月15日(1867年3月20日)、総理衙門主宰の恭親王が同治帝に、記事の内容とともに、礼部を通じて朝鮮に密咨を送り、実情を調査させるべき旨を密奏として上呈した〔田保橋1973、123頁。〕〔佐々木2000、19頁。〕。この上奏は直ちに裁可され、当時たまたま来清中だった朝鮮の冬至使に、さっそく礼部からの咨文が託された〔礼部は中国の伝統的な行政機関「六部」の一つで、朝鮮や安南・琉球など朝貢国との外交を司る役所である。それに対し第二次アヘン戦争後に設立された総理各国事務衙門は、英・仏・米など近代的な条約を締結した「有約通商之国」との外交(=洋務)を扱った。総理衙門設立後も、朝鮮などの朝貢国への文書は従来通り、礼部から発せられる咨文という形式がとられた。朝貢国・有約通商之国のどちらにも属さない日本は、「無約通商之国」を目指して清と交渉中であった(詳細は広東システム#総理衙門創設と上海システムを参照)。〕。この冬至使は翌月に朝鮮に帰国し、「征韓論」を伝える密咨が、朝鮮政府に届けられたのである〔李2009、13頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「八戸事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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