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八柱村(やはしらむら)は、明治時代中期から昭和時代前期まで存在していた千葉県東葛飾郡の村。現在の松戸市東南部地域にあたる。地形的には下総台地の南西端にあたる。村役場は現在の松戸市紙敷に置かれた。 今日、松戸市内において「八柱(やはしら/やばしら)」と呼称されている地域は概ね旧高木村に含まれ、八柱村の旧村域とは重ならない部分の方が多い。 == 八柱村の歴史 == 明治22年(1889年)、大橋・秋山・高塚新田・紙敷・和名ヶ谷・河原塚・田中新田・串崎新田の8ヶ村の合併によって発足する。これらの村々は同一戸長役場・学区に所属しており、農村地帯であった事に由来する。村名の「八柱」は8つの地域(旧村)が一致協力して新村の柱となり、民福増進にあたると言う意味の瑞祥地名である。 「「八柱」は「八つの云々」とは無関係であり、「谷(や)・端(はし)・ら」の読みに末広がりの「八」を当てたものだ」とする自称地名研究家と名乗る人物の説を掲載したサイトも存在するが、現地の来歴を知らない典型的かつ完全な誤りである。 当時の八柱村はいわゆる陸の孤島であり、米やネギなどを栽培する純粋な農村地域であった。明治33年(1900年)八柱村大橋(現在二十世紀が丘に属する)の松戸覚之助が二十世紀梨の生育に成功すると、この地域の梨栽培が注目されるようになり、高塚新田などを中心に村内で広く栽培されるようになった。昭和10年(1935年)、東京市が田中新田の土地73町3反余りに墓地を設置した。後の八柱霊園である。 ところが、関東大震災で村立小学校(八柱尋常高等小学校、現在の松戸市立東部小学校)など多くの建物が倒壊しその再建の為に多額の負債を抱えた。更に世界恐慌が追い討ちをかけ同村財政は破綻寸前となる。 そこで昭和13年(1938年)4月1日、八柱村は市制施行のために周辺との合併を進めていた松戸町に事実上の救済合併の形で合併されてその歴史に幕を閉じた。50年前に作られた瑞祥地名でしかない八柱の名が残ったのは東京市の八柱霊園のみであった。 なお村役場があった場所は現在住宅地となっているが、その一角に当時の役場で使用されていた井戸が70余年経った今も残っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「八柱村」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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