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公家大将(くげたいしょう)とは、南北朝時代の建武政権→南朝において、一軍を率いて軍事的指揮を執った公家のこと。 == 概要 == 公家大将の典型的な事例として知られるのは、建武元年(1334年)に鎮守府大将軍に任じられた北畠顕家の事例である。その就任経緯は父親の北畠親房が『神皇正統記』の中に記しているが、顕家は武芸の道に通じていないことを理由に辞退をしたものの、後醍醐天皇より藩屏としての期待をかけられて多賀城に派遣されたことになっている。 その一方で、鎌倉幕府を崩壊に導いた元弘の乱で畿内を転戦した護良親王の配下として四条隆貞(四条隆資の子)・中院定平などの公家が一軍を率いた例が見られ、これが公家大将のさきがけとみられる。その後、護良親王の失脚とともに四条隆貞は粛清されたものの、中院定平はその後も活躍しており、また前述の北畠顕家や四条隆貞の一族(隆資・隆俊)、更に二条師基・洞院実世・千種忠顕・堀川光継・二条為冬など、摂関家・清華家クラスも含めて家格を問わずに大将に任じられた例が知られる。また、藤原定家以来の歌道を継承する身であった二条為冬が任じられているという点において、大将の任命と家業の内容との関連も問われていなかったことも知られている。また、北畠顕家や堀川光継〔堀川光継は北条時行による中先代の乱鎮圧後に、時行が拠点とした信濃国の国司に任じられた。〕のように国司との兼任で派遣された事例もあり、建武政権が重要国において民政のみならず、軍事をも掌握する意図を有した派遣であったとみられている。 通常、鎌倉時代、特に承久の乱以後は公家は軍事に関わらなくなっていったと考えられている。だが、実際にはこの時代の公家は諸大夫・侍などの名目で身辺警護などを目的に一定の武力を保有していた。更に社会が不安定になった鎌倉時代後期には公家においても武芸を学ぶ人が多くなっていた。吉田兼好は『徒然草』(80段)の中で法師・上達部・殿上人が武を好む有様を批判している。また、公家とは直接関係ないものの、中巌円月も『原民編』の中で百姓・出家断髪の者(法師)が武装することを批判しており、公家も含めた社会全般の現象であったことが分かる。従って、公家大将が必ずしも名前だけの存在とは限らなかったのである。 一方、建武政権→南朝と争い、武家政権である室町幕府を成立させた足利氏もその基盤を安定させることは出来なかった。斯波氏や細川氏などの足利一族が守護として派遣された国では、その国の国人を帰服させて守護の軍事指揮下に入れることは困難であり、国人などの在地の武士層は状況によって公家(公家大将)側の動員にも、武家(守護)側の動員にも応じていった。例えば、興国3年/康永元年(1341年)に南朝の少納言五辻顕尚が常陸国に潜入した直後に足利方と戦うことが出来たのも、公家大将(顕尚)の動員に従う在地の武士があったのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「公家大将」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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