|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 公 : [こう] 1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate ・ 公文 : [くもん, こうぶん] 【名詞】 1. official document 2. archives ・ 文 : [ぶん] 【名詞】 1. sentence ・ 健 : [けん] 【名詞】 1. health 2. strength 3. stick-to-itiveness
小林 公平(こばやし こうへい、1928年2月24日 - 2010年5月1日)は、日本の実業家、作詞家。宝塚音楽学校名誉校長、阪急電鉄名誉顧問・元社長・会長。作詞家としてのペンネームは公文 健。 ==来歴・人物== 山梨県出身。1945年10月海軍兵学校(75期)卒業。1950年に慶應義塾大学経済学部卒業後、三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行)を経て阪急電鉄へ入社。社長、会長、相談役を務めた。その他、阪急ブレーブスのオーナーや、関西テレビ放送会長などを務めた。 元々は三菱グループと親密な三村家の出である。阪急阪神東宝グループ創立者である小林一三の三男・小林米三(元阪急電鉄社長)は、子供がいなかったため姪の喜美(一三の次男・松岡辰郎の長女〔松岡修造の伯母にあたる。〕)を養女としており、公平はその喜美と結婚し、小林家の婿養子となった。 阪急ブレーブスは、1988年10月19日に、オリックス(当時オリエント・リース)に譲渡を発表したが、その会見上、「球団創立50年を迎えて、球団を持つ使命を終えました。丁度オリエント・リースから球団譲渡の申し入れがあり、今後のブレーブスのために望ましいと判断して了承しました。」と、譲渡の理由について述べた。譲渡の条件は、1.「上田利治監督の留任〔球団がオリックスに売却した1989年以降も上田が引き続き監督を務めたが、神戸移転と愛称変更を機に1991年から土井正三に交代した(土井は2009年に死去)〕」2.「西宮球場を本拠地として使用する〔1991年に神戸総合運動公園野球場(当時はグリーンスタジアム神戸)に移転。現在はオリックスの準本拠地となっている。移転理由は井箟重慶を参照〕」3.「ブレーブスの名前を使う〔後にブルーウェーブを経て近鉄バファローズとの合併を機にバファローズに変更し、現在に至る〕」の三つであった。 当時、阪急ブレーブスの主力投手でオリックスでも活躍した山沖之彦は、逝去直後に「オリックスになっても(球団の)納会に顔を見せられた。元宝塚の妻(白川亜樹)、現役の娘(芹香斗亜)とともに気にかけていただいた」とコメントしている〔産経新聞 2010年5月3日〕。 宝塚歌劇団に対してはブレーブス売却後も精力的な活動を続けており、ペンネームの公文健名義で作詞するなど公演スタッフとしても活動している。公文健名義での活動は宝塚歌劇に限らず、1988年にリリースされた河合奈保子のシングル曲『Harbour Light Memories』の作詞も担当した。この曲は当時阪急が経営していた神戸ポートピアランドのTVCM曲で使用された。 ただし現在においては、ブレーブス売却、そしてバブル期の不動産投資の失敗で阪急電鉄の経営を傾けさせた張本人であるとして、社内での評価は極めて低い。 2010年3月24日、病気療養のため4月1日付で宝塚音楽学校の理事長と校長を退任し、名誉校長に就任することが明らかになった。宝塚音楽学校の理事長は1987年10月の就任以来約22年6ヶ月間、同じく校長は1996年8月の就任以来13年8ヶ月間それぞれ務めた。2010年4月1日の時点で東宝取締役、宝塚音楽学校名誉校長、千里国際学園理事、慶應義塾評議員を務めていた。 阪急電鉄が宝塚線の開業100周年を迎えた2010年5月1日、肺炎のため大阪府内の病院で死去。享年82。日本政府より亡くなった5月1日付で従三位に叙された〔官報 2010年6月1日付告知〕。 小林の没後1年たった2011年5月30日、没後1周年チャリティースペシャル公演「愛の旋律~夢の記憶」が、宝塚大劇場で開催されて、当時の宝塚歌劇団の5組のトップスター(蘭寿とむ、霧矢大夢、音月桂、柚希礼音、大空祐飛)をはじめ、OGで女優の鳳蘭、初風諄、現役では轟悠などが出演、同じくOGで女優の檀れいが司会を務めた。 長男の小林公一は阪急電鉄常務取締役創遊事業本部長(2015年4月1日付)で、同職就任までは宝塚歌劇団の理事長も務めていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小林公平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|