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六四天安門事件(ろくよんてんあんもんじけん)とは、1989年6月4日に、同年4月の胡耀邦の死をきっかけとして、中国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍が武力弾圧(市民に向けての無差別発砲や装甲車で轢き殺した〔張 2001〕〔『北京の長い夜―ドキュメント天安門事件』ゴードン トーマス著 吉本晋一郎訳(並木書房 1993年)〕)し、多数の死傷者を出した事件である。 略した通称は六四、また中華人民共和国内の検索エンジンにて、「六四天安門事件」というキーワードを検索すると接続不可能になることから、「5月35日(5月31日+4日)」、VIIV(ローマ数字の64)や、「82(8の2乗を表す数学記法で、答えが64=6月4日)」などを〔隔牆有耳: VIIV現天安門 蘋果日報-要聞港聞20090604 〕〔“今天是5月35日” FT中文网 (FTChinese.com) 〕、隠語として使うことがある。 == 解説 == この出来事は、政治改革に積極的だった胡耀邦元総書記の死がきっかけとなった。胡耀邦の葬儀までに、政治改革を求める学生を中心に10万人の人々が天安門広場に集まった〔"Keesing's Record of World Events". Volume 35, p. 36587. 1989.〕。抗議運動自体は、胡耀邦が死去した1989年4月15日から自然発生的に始まった。統制がなされておらず、指導者もいなかった抗議の参加者の中には、中国共産党の党員、トロツキスト、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を要求する声〔に反対していた改革派の自由主義者も含まれていた。 デモは最初は天安門広場で、そして広場周辺に集中していたが、のちに上海市を含めた国中の都市に波及していった。鄧小平の決定により5月19日に北京市に厳戒令が布告され、武力介入の可能性が高まったため、趙紫陽総書記や知識人たちは学生たちに対し、デモの平和的解散を促したが、学生たちの投票では強硬派が多数を占め、デモ継続を強行したため首都機能は麻痺に陥った。1989年6月4日未明、中国人民解放軍は軍隊と戦車で北京の通りに移動して無差別に実弾を発射し、武力弾圧を決行した。正確な犠牲者数は今なお明らかにされていない。 衝突のあと、中国共産党当局は広範囲に亘って抗議者とその支持者の逮捕を実行し、外国の報道機関を国から締め出し、自国の報道機関に対しては事件の報道を厳格に統制させた。厳戒令布告に反対した趙紫陽(当時)は総書記ほか全役職を解任され、2005年に死去するまで自宅軟禁下に置かれた。 1989年夏以降、一般に「天安門事件」という場合はこの事件を指す。1976年4月5日に周恩来が死去したときに発生した四五天安門事件(第一次天安門事件)と区別するため「第二次天安門事件」と呼ばれることもある。 抗議者に対する中国共産党による武力弾圧に対しては、国内はもちろんのこと広範な国際的非難が集まった。犠牲者の数は後述のように諸説あり、正確な数字は分かっていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「六四天安門事件」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tiananmen Square protests of 1989 」があります。 スポンサード リンク
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