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元弘の乱(げんこうのらん)は、1331年(元弘元年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動である。1333年(元弘3年/正慶2年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。以下では1331年から1333年までの戦乱について述べる。元弘の変(げんこうのへん)とも呼ばれる〔ただし、後醍醐天皇の京都脱出から鎌倉幕府に捕らえられた末に天皇の廃立に至る事件を「元弘の変」、この事件を含めた鎌倉幕府滅亡に至る戦乱を「元弘の乱」と区別する説もある(森茂暁「『博多日記』の文芸性と九州の元弘の乱」(初出:「福岡大学人文論叢」37巻4号(2006年3月)/所収:森『中世日本の政治と文化』(思文閣出版、2006年) ISBN 978-4-7842-1324-5 第三章第五節)P418)。〕。 == 背景 == 鎌倉時代後期、鎌倉幕府では北条得宗家が権勢を振るっていた。北条一門の知行国が著しく増加する一方で、御家人層では、元寇後も続けられた異国警固番役の負担、元寇の恩賞や訴訟の停滞、貨幣経済の普及、所領分割などによって没落する者も増加していった。幕府は徳政令を発して対応するが、社会的混乱から諸国では悪党の活動が活発化し、幕府は次第に支持を失っていった。 朝廷では、13世紀後半以降、後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)の両血統の天皇が交互に即位する両統迭立が行われていた。だが、公家社会の中に支持皇統による派閥が生じるようになるなど混乱を引き起こし、幕府による朝廷の制御を困難にした。 1318年(文保2年)、大覚寺統の後醍醐天皇が即位し、天皇親政を理想に掲げ、鎌倉幕府の打倒を密かに目指していた。1324年(正中元年)の正中の変は六波羅探題によって未然に察知され、後醍醐は幕府に釈明して赦されたものの、側近の日野資朝は佐渡島へ流罪となった。だが後醍醐は、処分を免れた側近の日野俊基や真言密教の僧文観らと再び倒幕計画を進めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「元弘の乱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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