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兼六園(けんろくえん)は、石川県金沢市にある日本庭園である。国の特別名勝に指定されている。広さは約11.7ヘクタール。 17世紀中期、加賀藩により金沢城の外郭に造営された藩庭を起源とする江戸時代を代表する池泉回遊式庭園であり、岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで日本三名園の一つに数えられている。2009年3月16日発売の『ミシュラン観光ガイド』には最高評価の3つ星に選ばれた〔ミシュラン観光版で兼六園が三つ星に-石川県内から21カ所が掲載 、金沢経済新聞、2016年3月30日閲覧〕。兼六園の名は、松平定信が『洛陽名園記』を引用して、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観を兼ね備えていることから命名した。春夏秋冬それぞれに趣が深く、季節ごとに様々な表情を見せるが、特に雪に備えて行われる雪吊は冬の風物詩となっている。県内でも随一の桜・梅・紅葉の名所でもあり、日本さくら名所100選にも選ばれている。金沢市の中心部に位置し、周辺には成巽閣、石川県立美術館、金沢21世紀美術館、石川県政記念しいのき迎賓館などの観光地があり、道路を隔てて橋一本で金沢城公園とも繋がっている。入園は後楽園、栗林公園と同じく有料となっているが、年末年始・観桜期・金沢百万石まつりの日・お盆・文化の日などの時期は無料開放されている。 == 歴史 == ===江戸時代=== 1676年(延宝4年)、加賀藩4代藩主の前田綱紀が、金沢城に面する傾斜地にあった藩の御作事所を城内に移し、その跡地に自らの別荘である「蓮池御殿(れんちごてん)」を建ててその周りを庭園化したのが兼六園の始まりである。庭は当時は蓮池庭(れんちてい)と呼ばれ、歴代藩主や重臣らが観楓の宴などをする場として使われていたが、1759年(宝暦9年)4月10日に発生した宝暦の大火で焼失した。それから15年後の1774年(安永3年)、10代藩主前田治脩によって蓮池庭が再興され、同年に翠滝と夕顔亭、1776年(安永5年)には内橋亭を造り、庭園が整備された。また、蓮池庭上部にある平坦な場所で当時は空き地になっていた千歳台に藩校である明倫堂と経武館を建てた〔兼六園の歴史 、兼六園HP、2016年3月30日閲覧〕。 11代藩主の前田斉広は、1819年(文政2年)に37歳の若さで隠居を表明し、千歳台で自身の隠居所の建設を始め、藩校は現在のいしかわ四高記念公園の場所に移した。3年後の1822年(文政5年)に建坪4000坪・部屋数200を超える隠居所「竹沢御殿(たけざわごてん)」を完成し、この年に松平定信によって兼六園と命名された。斉広の死後、竹沢御殿は12代藩主前田斉泰によって取り壊されるが、斉泰は1837年(天保8年)に霞ヶ池を掘り広げたり、栄螺山を築いたり〔入園券〕、姿形の良い木を植えるなどして庭を拡張・整備し、1860年(万延元年)には蓮池庭との間にあった塀を取り壊して、現在の形に近い庭園を築いた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「兼六園」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kenroku-en 」があります。 スポンサード リンク
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