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内ゲバ : ミニ英和和英辞書
内ゲバ[うちゲバ]
【名詞】 1. violence within a (student) sect 2. internal strife
===========================
: [うち]
 【名詞】 1. inside 
内ゲバ : [うちげば]
 【名詞】 1. violence within a (student) sect 2. internal strife
内ゲバ : ウィキペディア日本語版
内ゲバ[うちげば]
内ゲバ(うちゲバ)とは、内部ゲバルト(ないぶゲバルト)の略。ゲバルトは「、威力・暴力」の事で、同一党派または同一陣営などの内部での暴力を使用した抗争のこと。
一般的には、左翼党派内または左翼党派間、特に日本の学生運動日本の新左翼党派間での暴力を使用した党派闘争を指す場合が多い。逆に機動隊などの国家権力公権力)に対する暴力を用いた抗争は外ゲバとも呼ばれたが、「内ゲバ」ほど知られた表現ではない〔「機動隊と乱闘することを外ゲパといった」(『全共闘グラフィティ』p118)〕。
== 概要 ==
国家権力の暴力装置警察等)に対する暴力=ゲバルトを公然と表明する新左翼であるが、革命という共通した目的をもつ左翼陣営の内部にありながら、路線対立・ヘゲモニー争いを理由に、ある党派が別の党派に暴力を行使する。これを内部ゲバルト、略して「内ゲバ」という。
日本では1950年に日本共産党所感派国際派に分裂して以降、日本の学生運動で両派のテロリンチが頻発したのが始まりである〔「全学連第五回大会で、旧中執二十七人を追放する、共産党中央支持派の玉井新執行部が誕生するのだが、この大会では、新執行部系所感派「人民警官隊」による国際派の反戦学園系活動家に対するリンチ事件が起こっている。これは、反戦学園が帝国主義の手先であり、CIC(アメリカ軍情報部〉のスパイだとして、十数人を密室に監禁、リンチを加えたもので、のちに、七0年代に入って激化するグ内ゲバ事件4 のはしりということができよう。」(高木正幸『全学連と全共闘』)〕〔「日本の学生運動の内ゲバは、日本共産党が一九五O年に所感派と国際派に分裂し、両派のテロリンチが繰り返されるというなかで最初に発生しています。五二年六月に開催された全学連五回大会で、国際派の反戦学生同盟メンバーが所感派系の学生にリンチされる事件(立命館事件)がおこりました。お前らは「帝国主義の手先、CIAのスパイだ」というレッテル貼りです。リンチを受けた一人である松本忠明は自殺しましてるおた。しかしその前年、東京大学では、国際派の武井昭夫らが「スパイ容疑」で不破哲三らをリンチしていました。」〕。
日本共産党を否定して生まれた日本の新左翼が、1960年代初期には多数に分裂し、ここでも内ゲバが発生した。初めは集団の小競り合い程度だったが、後に個人拉致リンチを徹底的に加えるという陰惨なものになっていった〔「36年(1961年)に始まった極左暴力集団による内ゲバの形態は、47年(1972年)ころまでは、全学連大会や学園紛争、大衆運動の中でのトラブルや主導権争いのため発生した集団遭遇戦が大半を占めていたが、48年(1973年)からは、被害者の再起不能や殺害をねらった個人「テロ」の様相を深めた。」〕。また新左翼の街頭武装闘争が激しくなるにつれて、集団での抗争も武器がエスカレートし激しいものとなっていった。こうして1960年代の後半以降は多くの新左翼党派間に内ゲバが蔓延した。特に中核派革労協革マル派との間の内ゲバは激しく、1970年代には殺し合いの状態になり、革マル派が中核派と革労協の最高指導者暗殺したことで、内ゲバは「戦争」〔元々「内ゲバ」は、「党派は違えど、同じ新左翼に属する」とする立場から、「左翼の仁義」と称される一定のルール(死者は出さない、警察には介入させない等)に則って行われていた。しかし、「内ゲバ」がエスカレートし死者が続出するような段階になると、「内ゲバ」を行っている党派はお互いを「対集団」「反革命」と規定し、対立党派は「新左翼内部」ではないと見なすようになった。この段階に至った党派は、対立党派への暴力はもはや「内ゲバ」ではないとし、「戦争」と表現する。〕状態となった。なお第四インターなどは内ゲバを否定し続けた。
日本共産党は1955年(昭和30年)の六全協で、従来の武装闘争路線から、議会による平和革命を目指す方向に転換したため、その指導を受ける民青とともに表向きは暴力反対運動を主張してきた。選挙戦略の面からも、左翼が暴力的と見られることに敏感だった。しかし、民青系と新左翼系の内ゲバが起こった際には、民青系と新左翼は互いに暴行を振るい、それを新聞が「内ゲバ」「乱闘」と表現したと主張している。東大闘争でも民青もヘルメットやゲバ棒で武装して闘争を行ったが、代々木系は「正当防衛」と主張している。民青の実力部隊は「あかつき行動隊」とも呼ばれた。
内ゲバによる死者は100名以上、負傷者は数千人と言われている。内ゲバの巻き添え、あるいは攻撃側の誤認によって死傷したノンセクトや一般人も少なくない。これらは「誤爆」と言われた。しかし誤爆について、実行した党派が謝罪したケースはほとんどない。
また、大衆運動、学生運動の全盛期には、それらを内部分裂から自滅へ導くため、公安警察が各セクトにその敵対者の所在情報を巧みにリークするなどし、内ゲバを裏で手引きすることもしばしばあった。敵対党派を互いに「警察の手先」と非難するのはこのためであるが、実際に内ゲバで殺された中には、スパイとして潜入していた警察官もいたという。こうした学生運動の変遷は社会主義共産主義に対する幻滅を生み、彼ら新左翼が忌み嫌っていたはずのスターリン主義の思想とも重なり、運動の衰退を決定づけてゆくこととなる。なお最大の内ゲバ状態にあった中核派と革マル派の抗争については両派トップの会談によって停戦状態になったとされているが、両派ともに公表していない。
新右翼民族派)においても、スパイ粛清事件など少数ではあるが内ゲバともいえる事件が発生している。


また、さらに大抵の内ゲバは組織的な犯行で、盗難車を使って別のメンバーが退路の確保、覆面姿で襲撃を行うことが多いため、誰が襲撃に関与したのか特定しにくい。これに加え、電話線を切断するなどの巧妙な捜査妨害、隠ぺい工作から、白昼に行われたり、機関紙犯行を自認したような事件でも公訴時効が成立して犯人検挙できなかった事件は少なくない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「内ゲバ」の詳細全文を読む




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