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内ヶ島氏理(うちがしま うじまさ、うじよし、うじさと、生年不詳 - 天正13年11月29日(1586年1月18日)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。内ヶ島氏最後の当主。飛騨国帰雲城主。幼名は夜叉熊。兵庫頭。内ヶ島雅氏の子あるいはその子氏利の子。苗字は「内ヶ嶋」とも。子に氏行、娘(東常尭室)。 == 略譜 == 飛騨国白川郷の帰雲城主。山国である飛騨の中でも白川郷は陸の孤島と言ってよいほど峻険な地域であり、又それ故の国力の乏しさから彼を含めた歴代の内ヶ島氏当主はもっぱら白川郷の統治に専念し、外征という形で周辺地域の戦国史に顔を出すことはなかった。 天正4年(1576年)から6年(1578年)にかけては上杉謙信および上杉氏に臣従していた姉小路自綱の侵攻を受けたが、どちらも撃退に成功している。 この戦いを切り抜けた氏理は謙信没後に北陸地方に勢力を伸ばしてきた織田政権、とりわけ越中に勢力を築いた武将佐々成政との接触を図り始める。白川郷に強大な勢力を誇り、飛騨全土の浄土真宗の中心でもあった照蓮寺に対向するため、同じく浄土真宗の石山本願寺と戦っていた織田政権からの応援を見込んだのである。 このため天正13年(1585年)に成政が羽柴秀吉の侵攻(富山の役)を受けた際には援軍として越中に赴いたが、頼みの成政が秀吉の大軍の前に戦わずして剃髪して恭順、氏理も留守中に家臣の内応もあって金森長近に城を奪われてしまう。 ちなみにこれが最初で最後の外征であった。その後金森長近を通じて秀吉側と和睦、内ヶ島氏の家名と所領の安堵はされたが、飛騨一国を治めることになった長近に従属することとなった。 同年11月29日、その日帰雲城では和睦成立を祝う宴が開かれ、氏理本人はもちろん、娘婿の東常堯や嫡子の内ヶ島氏行など内ヶ島一族、重臣の主だったものが勢揃いしていた。 深夜に入り天正地震が発生し、帰雲城は帰雲山の山崩れに巻き込まれ完全に埋没。これにより内ヶ島氏は一族郎党一夜にして滅亡したのであった。 しかし、氏理の実弟の経聞坊は仏門にあった為に難を逃れ、この地震に関する書物(経聞坊文書)を残した。他にも譜代家臣で内ヶ島の血族でもあった山下時慶・氏勝父子は生き延び、氏勝は清洲越しの立役者となった。 なお、この氏理の居城跡に埋蔵金が埋まっているとの伝説がある(内ヶ島氏#埋蔵金伝説も参照のこと)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内ヶ島氏理」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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