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内村 宜之(うちむら よしゆき、天保3年12月18日(1833年2月7日) - 明治40年(1907年)4月13日)は、儒学者、武士(高崎藩士)。内村鑑三の父。幼名は金之丞である。内村金之丞宜之と表記することもある〔関根正雄『内村鑑三』13ページ〕。 == 経歴 == 天保3年(1832年)12月18日、宜之は内村家6代・長成の子として高崎城内に生まれ、後に家督を継ぐ。御側頭取を勤めていたとき、藩主松平輝声は「強心隊」を編成して、藩の軍制を洋式に改革していた。宜之も藩主に従っていたが、藩論が一致せず、藩主と共に江戸に移る。 1861年3月22日、江戸小石川鳶坂上の武士屋敷で、妻ヤソとの間に、長男鑑三が生まれる。その後、達三郎(英文学者)、道治、ヨシ、順也が生まれた。明治維新後は、高崎藩所轄の陸前牡鹿、桃生、本吉の権判事と、石巻県少参事、登米県少参事、高崎県少参事を歴任する。明治4年(1871年)、廃藩置県により、高崎県は他の9県と共に群馬県になる。これ以降は公職に着くことはなく、元藩主大河内輝声(松平から改姓)の相手役を行った。 晩年には、キリスト教の指導者になった息子鑑三の感化を受けて、クリスチャンになり、カナダ・メソジスト派の日本メソジスト教会下谷教会の会員になる〔鈴木範久『内村鑑三』49ページ〕。 明治37年(1904年)11月11日の妻ヤソの死去の後は、長男鑑三が世話をする。明治40年(1907年)東京府で死去する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内村宜之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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