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内村 良蔵(うちむら りょうぞう〔松野(1983)。〕、1849年(嘉永2年) - 1910年(明治43年)9月19日)は明治時代前半期の日本の教育者、文部官僚。東京外国語学校(東京外国語大学の前身)校長を務めた。別名公平〔楠家・富田。〕。 == 来歴 == 嘉永2年(1849年)、米沢藩医内村慶玄の嫡子として米沢元籠町に生まれる。幼名は洋庵〔。慶応3年(1867年)6月、同藩の平田道策(東助)らとともに慶應義塾に入社したが、江戸の情勢が緊迫すると帰藩を命じられた。戊辰戦争後、米沢で渡辺洪基、樫村清徳から英学を学び、さらに明治2年(1869年)5月頃から東京麻布の藩邸で慶應義塾教員吉田賢輔の指導を受けたのち、同年中に平田とともに大学南校に入学〔松野(1983)。松野良寅著 『東北の長崎 : 米沢洋学の系譜』 松野良寅、1988年11月、72-74頁、201-208頁。松野良寅編著 『興譲館世紀』 山形県立米沢興譲館高等学校創立百年記念事業実行委員会、1986年9月、184-188頁。〕。明治3年(1870年)閏10月に大学少舎長となり、翌明治4年(1871年)4月には大学中舎長兼大得業生に進んだ〔。 同年7月に大学が廃され文部省が置かれると9月に文部省九等出仕となった〔倉沢剛著 『学制の研究』 講談社、1973年3月、275頁。〕。また岩倉使節団理事官として欧米に派遣される文部大丞田中不二麿の随行を命じられ、11月に横浜を出港〔前掲倉沢、369頁。小林哲也 「『理事功程』研究ノート」(『京都大学教育学部紀要』第20号、1974年3月、)85頁。〕。英国の学事調査を担当し〔前掲小林、84頁。〕、明治6年(1873年)に帰国した〔。 帰国後は同年中に文部省七等出仕まで進み、翌明治7年(1874年)6月に文部省六等出仕、明治9年(1876年)2月に文部少丞となった〔「官吏進退・明治二十一年官吏進退二十三」。〕。この間、学校課勤務となったのち会計課長を務め〔『御官員 分課住所 早見鑑 文部省 教部省』 出雲寺万次郎、1873年5月、5丁表 。『東巡録』 巻之六、21頁 。西村正守 「東京書籍館の人々」(『図書館学会年報』第20巻第1号、日本図書館学会、1974年7月、)、49頁。〕、さらに明治7年10月から11月まで宮城外国語学校長心得を、明治9年4月から12月まで東京博物館長事務取扱を、12月から翌年1月まで同館御用掛を、同1月から2月まで教育博物館御用掛を兼務している〔「宮城英語学校年報 」(『文部省第二年報』)、「東京博物館年報 」(『文部省第四年報』)。「教育博物館年報 」(『文部省第五年報』)。〕。 明治10年(1877年)1月、東京外国語学校長に転じ〔、明治18年(1885年)9月に東京外国語学校が東京商業学校に併合されると文部権大書記官に就任〔「旧東京外国語学校及同校所属高等商業学校記事要畧 」(『文部省第十三年報』)。『官報』第671号、1885年9月24日、303頁 。〕。本省学務二局勤務となり東京商業学校御用掛を兼務したが、同年12月に非職となった〔『官報』第672号、1885年9月25日、320頁 。同誌第671号、1885年9月24日、304頁 。同誌号外、1885年12月29日、3頁 。〕。 退官後は本郷で金貸しを経営。晩年は駒込に広大な邸宅を構え、那須・葉山などに別荘を所有したという。明治43年(1910年)9月19日、病により享年63で死去。墓所は東京都文京区駒込の吉祥寺にある〔。農商務官僚でのち弁理士となった内村達次郎は婿養子であり、達次郎の子には昭和医科大学(昭和大学の前身)学長を務めた内村良二がいる〔松野(1985)。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内村良蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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