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内藤 寛一(ないとう かんいち、1897年(明治30年)9月〔『人事興信録』第13版 下、ナ8頁。〕 - 没年不詳)は、日本の内務・警察・厚生官僚。官選茨城県知事、陸軍司政長官、昭南市長(シンガポール)。 ==経歴== 愛媛県出身。内藤豊治の二男として生まれる〔。第一高等学校を卒業〔。1921年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し奈良県属となる〔〔『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』231頁。〕。 以後、奈良県警部、三重県理事官・工場監督官、長野県書記官・学務部長、和歌山県書記官・警察部長、内務省書記官・警保局図書課長、同大臣官房会計課長、厚生省書記官・衛生局指導課長、同大臣官房会計課長、同職業部長、同職業局長などを歴任〔〔『新編日本の歴代知事』253頁。〕〔『茨城県政と歴代知事 : 戦前45名の人物像』210-215頁。〕。 1941年3月26日、茨城県知事に就任〔。同年7月の風水害の復旧に尽力し、霞ケ浦北浦洪水水位低下工事の実現を図った。また戦時体制の整備に取り組む〔。1942年10月7日、陸軍司政長官に発令され〔『官報』第4725号、昭和17年10月8日。〕、同年11月、南方軍軍政総監部・交通部長に就任。1943年4月1日、同産業部長に異動。同年7月19日、昭南市長に転じ終戦を迎えた〔『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』136-137頁。〕。 戦後に公職追放となった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内藤寛一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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