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内藤幸三 : ミニ英和和英辞書
内藤幸三[ないとう こうぞう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [うち]
 【名詞】 1. inside 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [さち]
 【名詞】 1. happiness 2. wish 3. fortune 
: [み]
  1. (num) three 

内藤幸三 : ウィキペディア日本語版
内藤幸三[ないとう こうぞう]

内藤 幸三(ないとう こうぞう、1916年3月25日 - 2002年1月31日)は、三重県出身のプロ野球選手審判員。日本プロ野球最初の大型左腕投手である。
== 来歴・人物 ==
宇治山田市立明倫小学校では沢村栄治と同級生。北海道立小樽商業学校、東京市立商業学校(転校)時代から投手であったが、硬球を握っておらず、卒業後は軟式社会人クラブ「東京リーガル倶楽部」でプレー。1934年1935年の全国社会人軟式野球大会連覇に貢献した。
その年日本国中にプロ野球球団設立の機運が高まると、名古屋新聞関係者と共に名古屋金鯱軍設立に奔走。その投手となり、ここで初めて硬球を握った。1936年秋シーズンに139奪三振をマークし、初代の奪三振王となる(当時はタイトルではない)。
兵役で二年間ブランクの後、1939年から本格的にエースとして活躍するが、1941年のシーズン直前にチームが翼軍と合併し大洋軍となってから人生が暗転。朝日軍に移籍して1944年の休止までプレー。戦後朝日軍(この時点でパシフィックと変更していた)の仲間と共に新球団ゴールドスター(1947年から金星スターズ)を立ち上げてエースとなるが、永田雅一率いる大映に買収されるや『ラッパ(永田のあだ名)』から逃走するかのごとく阪急ブレーブスへ。
1949年オフに広島カープが設立されると第一次選手として移籍。球団勝利第一号投手としてチームの歴史に名を残すが度重なる移籍から体がボロボロになっていて結局1951年限りで現役を引退した。
引退後の1954年セントラル・リーグの審判部に入局し審判に転向。審判部が東京・関西の二部制となると東京審判部に所属。1966年まで審判を務めた。2002年1月31日脳梗塞のため86歳で逝去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「内藤幸三」の詳細全文を読む




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