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内藤政順 : ミニ英和和英辞書
内藤政順[ないとう まさより]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [うち]
 【名詞】 1. inside 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 
: [じゅん]
  1. (adj-na,n,n-suf) order 2. turn 

内藤政順 : ウィキペディア日本語版
内藤政順[ないとう まさより]
内藤 政順(ないとう まさより、寛政8年2月15日1796年3月23日)) - 天保5年8月21日1834年9月23日))は、日向延岡藩の第6代藩主。延岡藩内藤家宗家11代。
第4代藩主内藤政韶の長男。正室は井伊直中の娘・繁子(允姫、後の充真院)。官位は従五位下、右京亮。備後守。幼名は亀之進。
寛政8年(1796年)2月15日、江戸で生まれる。文化3年(1806年)に先代藩主の政和が若死にしたため、その跡を継ぐこととなった。蝋・和紙・菜種などの生産にも力を注ぎ、物産方役所や紙方会所を開設し、専売制を強化した。一方で自らの倹約には熱心ではなく、当時延岡に滞在した佐藤信淵から批判を受けたとされる。1812年(文化9年)、宮崎神宮の社殿を造営した。
天保5年(1834年)8月21日に39歳で死去した。嗣子がなく、繁子の実弟で養嗣子の政義が跡を継いだ。法号は海上院明山居士。墓所は神奈川県鎌倉市光明寺
政順の没後、髪をおろし充真院と称した繁子は、紀行記である「五十三次ねむりの合の手」、「海陸返り咲ことばの手拍子」、「三下りうかぬ不調子」、「午のとし十二月より東京行記」、延岡の日常を記した随筆である「色々見聞きしたる事を笑ひに書」など多くの著を残した。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「内藤政順」の詳細全文を読む




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