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内藤 清成(ないとう きよなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。後の高遠藩内藤家初代。内藤氏は岡崎譜代。 == 生涯 == 弘治元年(1555年)、三河国岡崎にて竹田宗仲の子として生まれる。内藤忠政の養子となり、19歳で家督を継いだ。浜松にて徳川家康に召し出され、小姓を務めて信任を得る。天正8年(1580年)、徳川秀忠(当時2歳、清成は26歳)の傅役を任された。天正18年(1590年)正月には、秀忠の供をして上洛した。 同年、家康が豊臣秀吉の命で関東に移封された時、清成は鉄砲隊を率いて江戸入りの先陣を務め、国府路(甲州街道)と鎌倉街道の交差付近に陣を敷き、遠見櫓を築いたという。同年9月、家康より四谷から代々木村にかけて20万余坪もの広い屋敷地を賜る。この拝領地は後に新しい宿場(内藤新宿)開設のため相当分が返上されたが、明治維新まで内藤家の江戸藩邸として使用された(現在の新宿御苑周辺)。江戸入り後の清成は関東八州庶務奉行・関東総奉行・江戸町奉行、老中などを歴任、行政面にて大きな功績をあげ、秀忠の傅役時代からの同僚である青山忠成と共に、幕府初期の治世を支えた。また、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠に従い上田合戦に従軍している(江戸で留守居を務めていたとする資料もある)。 所領・官位の面では、天正20年(1592年)に相模国東郡に5000石を与えられたのを始め、文禄4年(1595年)には従五位下修理亮に叙任し、豊臣姓を下賜された(村川浩平『日本近世武家政権論』、近代文芸社、2000年、40頁)。 慶長6年(1601年)、常陸国・上総国・下総国内で1万6000石を加増されて2万1000石となり、大名に列している。 慶長11年(1606年)1月、大御所家康の怒りを買い、秀忠によって青山忠成と共に関東総奉行の職を停止され籠居を命じられる。家康が江戸近郊の狩場へ鷹狩に出かけたところ、禁猟であるはずの狩場内に狩猟罠が仕掛けられており、これを許可したのが両名であったためとされる。本多正信らのとりなしにより切腹は免れ、11月には勘気が解かれたものの、以後は政治面から遠ざかることとなった。この事件は秀忠の征夷大将軍就任の翌年に起きたため、背景に家康と秀忠の実権争いがあるとする説や本多正信による陰謀とする説などが存在するが、真相は不明である。 慶長13年(1608年)江戸にて54歳で病没した。跡を長男の清次が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内藤清成」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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