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内藤鳴雪(ないとう めいせつ、1847年5月29日(弘化4年4月15日) - 1926年(大正15年)2月20日)は、幕末の伊予松山藩の武士、明治期の官吏、明治・大正期の俳人。幼名助之進、元服して師克(もろかつ)、のち素行(もとゆき)。俳号の『鳴雪』は、『何事も成行きに任す』の、当て字という。 == 生涯 == 伊予松山藩の上級武士内藤房之進と八十(やそ)の長男として、藩の江戸中屋敷に生まれた。8歳のときから父に漢籍を教わり、また、草双紙類を好み、寄席や義太夫も知った。なお、同時期に小使として出仕していた原田左之助(後の新撰組幹部で十番隊隊長。当時15,6歳)と会っており、遊んで貰った事もあった〔PHP新書 新選組証言録: 『史談会速記録』が語る真実 著者: 山村竜也106p〕 。1857年(安政4年)(11歳)、父の転勤で一家の故郷松山に移り、藩校明教館で漢学を学び、また、剣術も習ったが、『武』よりは『文』に優れた。翌年房之進が京都の留守居役となり、一家が8ヶ月だけ京都に住んだ時期にも、若党に芝居・寄席・義太夫へ連れられた。その後も長く芝居好きだった。 1863年(文久3年)(17歳)、元服して師克を名乗り、幹部の卵として明教館に寄宿し、大原武右衛門(正岡子規の母方の祖父)に漢詩を学んだ。1864年藩主の嗣子松平定昭の小姓となり、翌年の第二次長州征伐に従った。1867年(慶応3年)、隠居した前藩主松平勝成の側付となった。(春日)チカを娶った。明治になった。 1867年(慶応3年)、命じられて京都の水本保太郎の塾に学び、翌年水本の転勤に従って東京の昌平坂学問所へ入寮した。1869年、松山に戻り、翌年から権少参事として明教館の学則改革に携わった。1872年、学区取締となり、小学校・中学校の拡充に努めて、県令岩村高俊に認められた。1877年には、広島・岡山・山口・島根の連合教育会の議長に推された。 1880年(明治13年)(33歳)、文部省へ転じ、累進して1886年、書記官・往復課長となった。旧藩主久松家の諮問員に加わり、常盤会寄宿舎監督を引き受けた。東京に学ぶ松山の子弟の寮である。 1890年(明治23年)、参事官兼普通学務局勤務となって、翌年退官し、寄宿舎監督を続けた。寄宿生の、正岡子規・竹村黄塔・その弟の河東碧梧桐・五百木瓢亭・勝田主計らに、漢詩の添削をしてやった。1892年、21歳年下の子規を、俳句の師とした。子規の紹介で、伊藤松宇らの互選句会『椎の友』に加わった。俳風は、人柄そのままに恬淡・洒脱だった。鳴雪の号のほか、南塘・破蕉・老梅居も用いた。 1893年(明治26年)、久松家から旧藩事蹟取調を嘱託された。 1897年(明治31年)(50歳)、高浜虚子が東京で続刊したホトトギスの投句を選び、『老梅居雑話』ほかを掲載し、また、万朝報・読売新聞・中外商業新報・日本人・日本及日本人・太陽などの俳句選者を輪番的に勤めた。 知られていなかった与謝蕪村の句集を探し合い、輪講してホトトギスに掲載した。 1907年(明治40年)に舎監をやめた後も、寮の世話役でいた。愛媛県教育協会の名誉会員を勤め、また、史談会の中心にもなった。 1917年(大正9月)(70歳)、旧寮生の発議による寿碑、『元日や一系の天子不二の山』が、松山市道後公園に建ち、その除幕式に招かれた。その事の前に、東京では祝賀の演能が催され、『自然居士』のシテを高浜虚子が、ワキを河東碧梧桐が舞った。 1925年(大正14年)、肋膜炎を病み、軽い脳溢血で臥床し、翌年、麻布笄町(現在の西麻布四丁目)の自宅で没した。『天真院鳴雪素行居士』。故人が1919年に青山霊園に設けた墓所へ、葬られた。 :只たのむ湯婆一つの寒さかな 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内藤鳴雪」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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