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内藤 繁春(ないとう しげはる、1931年1月12日 - 2013年8月12日〔訃報:69歳で騎手免許挑戦、内藤繁春元調教師が死去 67 burogu 2013年8月18日閲覧〕)は、国営競馬、日本中央競馬会に所属した騎手、調教師。騎手時代は宝塚記念連覇などの実績を残し、調教師転身以降は1979年菊花賞優勝馬ハシハーミット、1991年有馬記念優勝馬ダイユウサクなど、数々の活躍馬を管理した。管理馬通算出走11201回は中央競馬の史上最多記録である。また、調教師として定年引退間際の2000年に騎手復帰を試みたことで話題を集めた。 実兄・内藤博司は東海地方で飲食店をチェーン展開する株式会社だるまの創業者。同社会長で馬主の内藤耕造は甥である。 == 経歴 == === 少年期 === 1931年、愛知県碧海郡高浜町(現・高浜市)に生まれる。実家は名古屋コーチンを生産する養鶏場であった〔木村(1997)p.748〕。太平洋戦争を経て、戦後は定時制高校に通いながら鉄工所、次いで瓦の製造会社に就職したが、工場内で排出される煤煙で肺を病み休職を余儀なくされ、高校も中退した〔木村(1997)p.749〕。 休養中、高校時代の友人と地方公営・岡崎競馬場を訪れたことをきっかけに騎手を志す〔木村(1997)pp.749-750〕。この希望は父親から猛反対を受けたが、兄・博司の取りなしにより許可を得、また博司の知人を通じて名古屋競馬場の騎手兼調教師・光岡直三郎を紹介された〔木村(1997)p.750〕。光岡は内藤に対し規模の大きい国営競馬(後の日本中央競馬会)で騎手になることを勧め、京都競馬場の調教師・武田文吾を紹介。しかし武田は半年前に騎手見習いとして栗田勝を受け入れたばかりであり、この移籍話は流れた〔木村(1997)p.749〕。その後改めて中山競馬場の鈴木信太郎厩舎を紹介され、1950年、騎手見習いとして鈴木厩舎に入った〔。当年、博司も名古屋市内に寿司店を開業している〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内藤繁春」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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