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内裏塚古墳群(だいりづかこふんぐん)とは千葉県富津市の小糸川下流域の沖積平野内にある、5世紀から7世紀にかけての古墳時代中期から終末期に築造された古墳群である。現在のところ前方後円墳11基、方墳7基、円墳29基の計47基の古墳が確認されている〔古墳の数は、小沢「内裏塚古墳群の概要」(2008)p.4を採用した。ただし現在円墳とされている古墳の中には、前方後円墳である可能性がある古墳が存在する。詳細は主な構成古墳の項を参照。〕。 == 古墳群の名称について == 内裏塚古墳群に属する古墳は、旧飯野村の村域を中心として分布していることから当初は「飯野古墳群」と呼ばれていたことが多かった。しかし旧青堀町に属する古墳もあって飯野古墳群では不適当ではないかとのことで、「富津古墳群」、「内裏塚古墳群」という名称が提案されるようになった。富津古墳群という名称は、1955年に青堀町、飯野村、富津町の三町村が合併して富津町となる以前の富津町の地域内には、古墳群に属する古墳が全くないことと、1971年の富津市の成立後、かつての富津町よりも広い市域を指すようになった「富津」の名を古墳群の名称とするのは不適切ではないかとの見解により、古墳群内最大の古墳である内裏塚古墳から名づけられた内裏塚古墳群が古墳群の名称として主に用いられるようになり〔千葉県教育庁文化課『千葉県富津市内裏塚古墳群測量調査報告書』(1986)pp.9-10〕、多くの専門書でも内裏塚古墳群という名が用いられている〔白石(2007)、小沢(2008)、白井(2009)、広瀬(2009)らは古墳群の名称として内裏塚古墳群を用いている。〕。 しかし内裏塚古墳は古墳群内の盟主墳の中では唯一、5世紀半ばの古墳時代中期造営の古墳であり、6世紀半ばから7世紀にかけて最盛期を迎えた古墳群の名称として、内裏塚古墳の名前を用いるのは適切ではないとの意見の専門家もいる〔土生田(2006)p.83〕。 ここでは多くの専門家が用い、一般的にも広く用いられている内裏塚古墳群を記事名として採用する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内裏塚古墳群」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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