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内部マケドニア・アドリアノープル革命組織 : ミニ英和和英辞書
内部マケドニア・アドリアノープル革命組織[ないぶ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [うち]
 【名詞】 1. inside 
内部 : [ないぶ]
  1. (n,adj-no) interior 2. inside 3. internal 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [かわ]
 【名詞】 1. skin 2. hide 3. leather 4. fur 5. pelt 6. bark 7. shell 
革命 : [かくめい]
 【名詞】 1. revolution 
: [めい, いのち]
 【名詞】 1. command 2. decree 3. life 4. destiny 
: [くみ]
 【名詞】 1. class 2. group 3. team 4. set 
組織 : [そしき]
  1. (n,vs) (1) organization 2. organisation 3. (2) structure 4. construction 5. (3) tissue 6. (4) system 
: [おり]
 【名詞】 1. weave 2. weaving 3. woven item

内部マケドニア・アドリアノープル革命組織 ( リダイレクト:内部マケドニア革命組織 ) : ウィキペディア日本語版
内部マケドニア革命組織[ないぶまけどにあかくめいそしき]


内部マケドニア革命組織(ないぶマケドニアかくめいそしき、ブルガリア語:、ラテン文字転写:Vatreshna Makedonska Revoliucionna Organizacia、マケドニア語:、ラテン文字転写:Vnatreshna Makedonska Revolucionerna Organizacija)は、オスマン帝国の領土であったマケドニアおよびトラキア地方、並びにブルガリア、および1913年以降はセルビアおよびギリシャ領マケドニア地域でも活動した政治的革命組織。幾度か組織名を変更している(後述)。頭文字をとってVMRO)、またはその名称を英語に翻訳した「Internal Macedonian Revolutionary Organization」の頭文字をとってIMROとも通称される。
20世紀末以降のマケドニア共和国およびブルガリアには、「内部マケドニア革命組織」の名を冠した右派の政治組織が複数存在する(内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党など)。これについてはそれぞれ別項を参照されたい。なお、本項で述べるアドリアノープルとはトルコのエディルネのことであり、ここではオスマン帝国時代に存在したエディルネを中心とするトラキア地方の州を表す(詳細はSubdivisions of the Ottoman Empireも参照)。'')、またはその名称を英語に翻訳した「Internal Macedonian Revolutionary Organization」の頭文字をとってIMROとも通称される。
20世紀末以降のマケドニア共和国およびブルガリアには、「内部マケドニア革命組織」の名を冠した右派の政治組織が複数存在する(内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党など)。これについてはそれぞれ別項を参照されたい。なお、本項で述べるアドリアノープルとはトルコのエディルネのことであり、ここではオスマン帝国時代に存在したエディルネを中心とするトラキア地方の州を表す(詳細はSubdivisions of the Ottoman Empireも参照)。
== 起源と目的 ==
VMROの起こりは1893年で、オスマン帝国支配下のテッサロニキで発足した小規模な反オスマンのマケドニア・スラヴ人革命組織で、後にブルガリア人が支配するようになった〔 The Balkans. From Constantinople to Communism. Dennis P Hupchik, page 299 〕。彼らはマケドニアを独立した領域であり、その住人は民族の別に関わらずマケドニア人と呼ぶべきであると考えていた。VMROは秘密革命組織であり、19世紀末から20世紀はじめにかけて、マケドニア地方に自治国家を打ち立てる目的で活動をはじめ、後にブルガリアによるバルカン半島の政治への関心に従って動くようになっていった〔 Britannica Online Encyclopedia - Internal Macedonian Revolutionary Organization (IMRO) 〕。組織を指導したのはフリスト・タタルチェフ(、Hristo Tatarchev)、ダミアン・グルエフ(、Dame Gruev)、ペタル・ポプ=アルソフ(、Petar Pop-Arsov)、アンドン・ディミトロフAndon Dimitrov)、フリスト・バタンジエフHristo Batandzhiev)、イヴァン・ハジニコロフIvan Hadzhinikolov)であった。
フリスト・タタルチェフの記録によると、最初の組織名はマケドニア革命組織MRO)であった。イヴァン・ハジニコロフは自身の記録の中でマケドニア革命組織の設立時の5つの基本原則を記している。
# 革命組織はマケドニアで組織され、マケドニアで活動すべきであり、これによってギリシャ人およびセルビア人は革命組織をブルガリア政府の手先だと決め付けることが出来なくなる。
# 革命組織の設立者はマケドニアに住む地元の人間であるべきである。
# 革命組織の政治目標はマケドニアの自治であるべきである。
# 革命組織は秘密で、独立したもので、他の独立国家の政府とのつながりのないものであるべきである。
# ブルガリアおよびブルガリア社会に暮らすマケドニア人移民は、マケドニアの革命闘争に対し精神的および物的な支援のみを与えるべきである。
フリスト・タタルチェフによると、
ダミアン・グルエフの記録によると、MROの目的は次のように定められていた。
これらの資料に基づいて、1896年または1897年における組織の初期の非公式の名称が「ブルガリア・マケドニア・アドリアノープル革命委員会」(BMARC)であり、この名称で1902年に「秘密マケドニア・アドリアノープル革命組織」(SMARO)へと改称されるまで使用されていたという説がブルガリア人によって提唱され、西側諸国の歴史家の間で受け入れられている。幾らかのマケドニア人の歴史家はこの「ブルガリア・マケドニア・アドリアノープル革命委員会」の名称が極初期に存在していたことを認めるものの、マケドニア共和国においては一般的には1896年から1902年にかけての名称は「秘密マケドニア・アドリアノープル革命組織」であったと考えられている。どちらの説にも決定的な証拠資料は不足しており、またそのどちらの名称も内部マケドニア革命組織の文書中には現れないものの、これらの名称は日付のない手書きや印刷された規則のなかに登場する。しかしながら、マケドニアの歴史家は「秘密マケドニア・アドリアノープル革命組織」の規則が1989年からロンドンに存在していた点を指摘している。いずれにしても、組織がその名称を1905年に「内部マケドニア・アドリアノープル革命組織」(IMARO)に改称された事実には疑いなく、ブルガリアの歴史においてはこの名称が使われている。1915年から1918年にかけてのブルガリアによるマケドニア占領の間、組織は解散されたが、1920年に「内部マケドニア革命組織」(IMRO)の名称で復活した。
当初の委員会によって規定された目標は、オスマン帝国支配下の「マケドニアおよびアドリアノープル州(Vilayet)における全ての不満要因を糾合し、それによって地域の自治権を勝ち取る」ことであった。この時組織は、地域のヴラフ人ギリシャ人、さらにトルコ人の助力も期待していた。精力を精神的プロパガンダの流布に集中し、抵抗運動とテロ活動の見込みは希薄であった。組織は急速に成長し、数年のうちに委員会はマケドニアおよびアドリアノープル州の多くの地元の抵抗組織とのネットワークを形成するようになった。この動きは主にブルガリア正教会が中心となり、また地元またはブルガリア出身の教師が関わっていた。
内部マケドニア革命組織は主に、設立当初から民族的にはブルガリア人が主流を占めていたが、その考え方はマケドニアの自治を目指し、ブルガリア政府の方針とは距離を置いたものであり、ブルガリアによって動かされていたものではなかった。組織の指導者たちは、自治権獲得運動がブルガリア政府の手先となるよりも、列強諸国から好意的に見られることをより強く望んでいた。
イギリスのジャーナリスト、ヘンリー・ブレイルズフォード(H. N. Brailsford)いわく、
何がより重要かと、組織の若い指導者たちは過激な社会主義者や無政府主義者の考えを擁護し、彼らの目的がブルガリアとひとつになることよりも新しい形式の政府を打ち立てることであるという姿勢を見せた。結局は、このような考え方によって組織の規則は変更され、メンバーはブルガリア人のみではなく、民族や信仰の別に関わらず全てのマケドニア人とアドリアノープル人であるとした。それでも実際には、ヴラフ人を除いては、メンバーたちはブルガリア正教会の圧倒的な影響下に置かれていた。
革命運動における社会主義者とコスモポリタンの考え方に関して、アメリカ人アルバート・ソニクセンは次のように述べている。
現代のブルガリアの歴史家は、内部マケドニア革命組織の右派の支持者はの考えるマケドニアの自治の最終的で自然な行く末は、独自国家の建設よりもはるかにブルガリアとの統一に傾いていたと主張している。彼らは、イリンデン蜂起の際の第2マケドニア・アドリアノープル革命地区の指導者であったダミアン・グルネフとボリス・サラフォフからブルガリア政府にあてた公式の手紙から次のように引用している。
第一次世界大戦におけるマケドニア戦線(1915年-1918年)では、組織はブルガリア軍に協力し、ヴァルダル・マケドニア(セルビア領マケドニア。後のマケドニア共和国)をブルガリアが占領した際は、ブルガリアの一時的な占領統治機構に加わっている。この間、政治的戦略として自治の目標はすべての内部マケドニア・アドリアノープル革命組織の流派で停止され、彼らはブルガリアとの統一主義者と立場を共有し、ブルガリアによるマケドニア併合を支持した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「内部マケドニア革命組織」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Internal Macedonian Revolutionary Organization 」があります。




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