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写真協会(しゃしんきょうかい)は、内閣情報部(のちの情報局)が1938年7月に設立した対内外宣伝・写真配信・出版物制作などを目的とした日本の国策機関である。 == 略歴・概要 == 1939年4月には、各省(陸軍省、海軍省、外務省、商工省、鉄道省)からの出資により財団法人となった。同年8月(下記参考文献「第二次世界大戦と日本のジャーナリズム」34ページ)または12月(下記参考文献「反日宣伝に対抗する報道写真」52ページ)には、国庫からの補助金により、ベルリンに支局を開設した。 先行して創刊(1938年2月16日創刊)されていた写真週報の編集も行っていた(表紙写真の撮影者として、「写真協会」とクレジットされているケースもある)。下記参考文献「反日宣伝に対抗する報道写真」52ページによれば、「内閣情報部調乙二十四号」には、この写真協会設立には各官庁間の調整が必要であることから、設立案具体化の第一手段として創刊されたのが「写真週報」であると記されている。 内閣情報部の嘱託により、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の元社会部記者(カメラマン)であった林謙一(作家、1906年 - 1980年)が中心となって設立された(下記参考文献「反日宣伝に対抗する報道写真」53ページには、むしろ、林謙一のほうが積極的に、写真協会設立について陸軍に働きかけた、という主旨の伊奈信男の発言が引用されている。なお、林謙一は写真週報創刊にも関与している)。他のメンバーは、松本昇(総務部長)、浜田健次(国際部長)など。当初は、写真部員はおらず、すべて外部(同盟通信社、加藤恭平 (写真家)など)への嘱託であり、暗室も同盟通信社の暗室を借りていたという。事務所は、当初数寄屋橋交差点のマツダビルの2階にあった(住所は、東京市京橋区銀座四―二 マツダビル二階二〇四号)。 1940年の時点では、林謙一は内閣情報部へ移り(内閣情報部情報官のち情報局第五部第一課情報官)、松本昇と稲葉熊野(業務部長。元読売新聞)が中心となっていた。写真部には、同盟通信社の内山林之助、村山尚寛、内閣嘱託の波多野健一、高橋正雄、営業写真から転じた久米茂などがいた。笹本恒子が在籍したことでも有名。また、暗室係として、小杉清一、草野某(名字のみしか不明)が在籍した。総勢30余名だったという。また、この時点では、オフィスも、数寄屋橋から有楽町駅前の東日会館の2階へと移っている。 1941年1月には、雑誌『フォトタイムス』と雑誌『カメラアート』を戦時統合した雑誌『報道写真』(B5判、編集人・松本昇)を創刊し、1944年3月号まで刊行した(その後継誌である1944年5月創刊の『日本写真』は、日本写真公社から刊行)。その他にも、各種の出版物に関与した(下記「写真協会がかかわった出版物」参照)。 1944年末頃または1945年まで存在したと推測されるが、正確に何年何月まで存在したかは明確ではない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「写真協会」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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